犬棒カルタの「ち」は塵も積もれば山となる。
このことわざは小さなことでも飽くことなく積み重ねていけば大きな成果を得られますよというプラスの意味合いで使われる場合と、日々の片付けを怠っているとゴミ屋敷になってしまいますよという警告的な使われ方の2種類がある。
小さい頃僕はしばしば母の自転車の後ろに乗って近くのスーパーへ行った。買い物をするとブルーチップというシールをくれる。シールを台紙に貼るのは僕の役目だったが、たくさん集めると車や電化製品や海外旅行券がもらえると知ってワクワクした。しかしあるときそのためには天文学的な数のシールを集めないといけないと知ってがっかりした。なんだかまるで、ちょっと馬鹿にされた気がした。
だからというわけでもないが塵も積もれば山となると聞くと何言ってんだという気持ちになる。実感としては、塵も積もれば山になることもあるという方が現実に近い。
じゃあ、どんなときに山になって、どんなときに山にならないのだろう。
普通は山を作ろうと思って塵を集めてもいずれは飽きる。すぐに飽きる場合もあれば、何年か努力して成果が出ないと諦めてしまう。
だからずっと続ける人というのはおそらく塵を集めるのが「好き」なんだろう。
好きな塵集めをしている間にいつの間にか山が出来ているというのが本当のところで、ずっと塵集めをする人というのは、それはもう業といってもいい。
そのことが病的なほど好きなのであって、ことわざに言われるまでもなくほっといても塵を集める。いやむしろやめろといってもやめない人たち、集めるのをやめられない人が山を作ってしまう。そしてそれはたぶん何かの役に立つために山を作ろうと思ったわけではない。
20世紀の最も偉大な物理学者のひとりであるリチャード・ファインマンは、科学者を突き動かす盲目的ともいえる探究心をユーモラスな比喩で説明している。
「科学はセックスに似ている。時には何か役に立つものが生まれることもあるが、しかしそれは私たちがそれを行う理由ではない」(※)。
※:ジョルジョ・パリージ著「相転移による集団行動」第8章「科学の意味」より
2026/8/19

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