2020年11月28日土曜日

行為とアイデンティティ

 問。
少し頑張っただけで身体が悲鳴を上げ、悲鳴を挙げない範囲で努力しても全く成果が上がらないときひとは行為を続けることは可能か?

答。
アイデンティティは自己同一性などと訳されているが自己同一性ってなんだ?自己は自己に決まっているじゃないか。同一じゃない自己なんてあるのか?という埒のない堂々巡りは置いておいて、要するにアイデンティティとは自己と他者を区別する根拠というか、私らしさみたいなものだろう。 

家族や友人や社会からの「お前は何者なのか」という圧力を意識するのは、まだ社会的に自立していない若い世代だ。こういった外側からの圧力に抗するために「いやワシはこういうもんだ」という自分の内側からのつっかえ棒が必要になってくる。これがいわゆるアイデンティティだ。

しかし「ワシはこういうもんだ」と意識できるためには、自分は他者と異なっている必要がある。ただ単に顔カタチが異なっているだけではつっかえ棒としては弱いわけで、他の人より優れているか劣っているか。他の人より劣っていればそれはそれで他者と自分を区別するメルクマールになるが、「いやワシはあんたより頭が悪いのだ、どうだ、えっへん」というふうにはなかなかならない。やはり外圧に対抗するための内なるつっかえ棒としてはなにかに優れていたり魅力的だったりするほうがいいだろう。

では自分はこういう点が他者よりも優れていると思うだけの根拠はどのようにしたら手に入るだろう。そのためには例えばなにかの部門で競争して勝つとか、なにか困難なことを達成する必要がある。 だから我々は得てして行為の目的は勝つことや困難を達成することであり、それ以外に行為の喜びはないと考えがちである。

若い頃はアイデンティティが不安定なので行為の目的は勝利や達成であると考えても仕方がない。 しかしトシを取って、外側からの圧力という幻想から自由になり、内側からのつっかえ棒なしでも存続できる、いわば犬猫のような存在様式もアリだと思えるなら、行為の目的は行為自体である。

大きく強くなるためにごはんを食べる人もいるだろう。しかしごはんを噛めば口の中にごはんの味が広がって美味しいだろう。そのように、勝ち負けや達成の可否ではなく、行為自体が含有する喜びを味わうことができるようになれば、行為を続けることは可能だろう。

さらに言えば、もはや行為の目的が喜びの有無ではなく、行為の目的が行為そのものになり、自己が行為そのものになってしまうこと、これは禅の説くところだが、そのような行為の存続形式もある。
えらく大げさな話になってしまったが。


2020年11月9日月曜日

還暦ピアノ

 Tumblrを見ていたらflowkeyというピアノレッスンアプリが紹介されていて、無料お試しダウンロードしたのが9月の26日。以後ほそぼそと練習を続けている。

ブーレという練習曲が弾けるようになったので気を良くしていたら、おととい来た調律師氏は「鍵盤を見ながら弾くのは暗譜とはいいません。ピアニストは楽譜を見ずに弾きますがそれは頭の中の楽譜を見ながら弾いているのです」と。

楽譜の音符を見て指が動くようにならないといけないらしい。
アマゾンで注文したトンプソンの現代ピアノ教本1が届いたのでPUDOに取りに行く。