2026年8月2日日曜日

花より団子



犬棒カルタの3番目の「は」は花より団子。
花より団子といっても何も思いつくことがない。
犬棒カルタを順番に書いていくのはなかなか難しいと早々と実感。
困ったが、そこで小林秀雄が講演会で正宗白鳥のことをしゃべっていたのを思い出した。
どれも愉快で楽しいがそのなかにひとつ、正宗白鳥が小学校に上がって間もない頃の思い出を紹介している。
ある時先生が生徒達に宿題を出した。桜が満開だったのでそのことについて作文を書くように言った。
正宗の家では毎年庭の八重桜が咲くと祖母の作ったごちそうの弁当を食べながら花見をするのが習わしであったが、その時はまだ八重桜は咲いておらず、したがって花見もまだであった。そこで困った正宗少年は白紙のまま作文を提出した。
先生がこれでは零点だ、何か書けと言う。しかし正宗少年が何も思いつかないと言うので困った先生は意外なことを言う。
以下正宗白鳥の「花より団子」(青空文庫)からの引用(リンク)。

「どうしたのぢや。何も書いてないと零点だぜ」 
「しやうがありません」 
「何か書きなさい。今は桜の盛りぢや。花は桜木、人は武士と云ふことを君も聞いとるだらう」 
「知りません」 
「咲いた桜になぜ駒つなぐ、駒がいさめば花が散ると云ふ唄聞いたことないか」 
「聞きません」 
「それでは花より団子。君も団子の方が好きなんだらう。花見に行つて団子をたべたと書いたらいいぢやないか」
先生にさう云はれると、私はその通りに書かうかと思つた。
桜の花を楽むよりも団子でも食べたいと思ひながら筆を執つてゐると、桜の花が団子のやうに見えだした。
団子が串に差されて立つてゐるのが満開の桜の形か。私はさう思ひ出すと、それが面白くなつた。 「花見の記」が団子の記になつた。
団子が咲いた咲いたと書いた。
先生はそれを取上げていい点をつけて呉れた。この先生も剽軽であつたのか。
でも、私にも団子は団子、桜は桜。団子は口にうまいもの、桜は目に美しいもの。
或日、隣の家から貰つた団子を腹一杯食べた私は、離れの庭にぽつりぽつりと咲きだした花を、自分一人で見上げてゐたが、膨らんだ団子腹を消化させる気になつたのか、その桜の木にするすると登つて、咲く花を一握り掴んで口の中へ入れた。
うまいまづいの感じではなく、綺麗なものを、口から喉を通して腹に入れたやうな感じがした。さうして、二握り三握り、むしゃむしゃと喰つたのであつた。
それ以上は喰へさうでなかつたが、さうしたあとで木から飛下りて、花から花を見上げてゐると、「こんな綺麗な花の味を誰も知るまい」と、それを面白いことのやうに考へだした。いくら美しくつても、これは人間のたべ物ぢやないと思はれたので、誰にも云はなかつた。
だが、あくる日、午餐のあとで、その離れの庭に出ると、昨日にもまして花の色づいたのに心惹かれて、またその木に登つて、二握り三握りつかみ取つて、口から喉へ通した。
味がどうであらうと、綺麗なものを腹に入れたといふ気持は快くなつた。
家の者に気づかれないうちにどれほどのものが喰はれるかと、人知れぬ異様なたのしみになつた。

小林秀雄はこの文章を読んだときの印象をその講演で述べているが、自分が感じたことを正直に書くと言うこと、逆に言えば感じ得なかったことについては一言半句も決して述べないというのが正宗白鳥の文芸活動の本質であり、幼くしてすでにその萌芽が彼のこの体験に現れているじゃないかと語っている。

2026/8/2



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