2026年7月31日金曜日

犬も歩けば棒に当たる



犬棒カルタの記念すべき第一回はご存じ「犬も歩けば棒に当たる」です。
犬棒カルタにはよくわからないものもいくつかありますがこれはそのなかでもとくにわからない。

棒に当たるってなんだろう?
今どき道を歩いていて棒に出くわすことはほとんどありません。
昔は多かったのかな?建材だろうか?何かの道具?
確かに僕の小さい頃は空き地なんかによく棒が落ちていた。僕はその棒をバット代わりにして王貞治気分で石を打ったりしたものだ。

それが何の棒であるにせよ、犬に当たるためには棒は立っていないといけない。なぜ立っているのかわからないが、犬にしても歩いていてむざむざ立っている棒に当たるほど馬鹿じゃないだろう。
とするとこの棒の向こう側にはヒトがいて、エサを探してうろつく犬を叩こうと待ち構えているわけだ。
つまりこのことわざは意味もなくうろついていると碌な目に遭わないぞと。目的を持って、しっかり前を向いて歩きなさいよと。
うーん、それではなんだかつまらない。よくわからないがそれでは意味が浅い気がする。

「犬も歩けば」というのは犬でさえという意味だろう。
もし「棒」が不運のメタファーであるなら、主語は良い人、つまり不運に出くわすのに似つかわしくないものでなければならない。
例えば「仏陀も歩けば棒に当たる」とか「空海も歩けば棒に当たる」とすれば、あの素晴らしい仏様や空海様でさえ用もなく出歩けば不運に出くわすのだ、ましてやバチ当たりな我々においてをやと。くわばらくわばら、とこうなる。

ひるがえって「棒」が幸運のメタファーであったら主語はつまらないもののほうが意味が引き立つだろう。とるに足らない犬でさえ当てもなく歩いているうちに何かいいことに出くわすことがあるものだ、ましてやわれわれ人間においてをや。ありがたやありがたやと、確かにこの方がすっきりする。

ただし、棒ってはたして幸運のメタファーだろうか?
映画「2001年宇宙の旅」で類人猿が手にした骨を武器(棒)として使用したのち、空へ放り投げた骨が宇宙船に変わるシーンを思い出す。
僕が空き地で見つけた棒をバットに使ったように、棒は古代の人達にとって手では届かない高い木の実を落としたり、穴を掘ったり、重いものをてこにして動かしたり、車軸にしたり、武器にしたりという、いわば多様な目的に使うことの出来る道具として姿を現したのではないか。人類にとって、初めての「手の延長」。それは大きな喜びであったに違いない。

日本では棒を幸運のメタファーとする歴史はあまり見当たらないが、英語圏では「幸運が逃げないように」と祈りを込めて、近くにある木の棒(stick)をトントンと叩く習慣があったり、クリスマス・イブに丸太を暖炉で燃やしてその灰を翌年まで取っておくことで家を落雷や火災から守り翌年の一家に幸運をもたらすという風習が残っているようだ(ケーキの「ブッシュ・ド・ノエル(クリスマスの丸太)」はこれが形を変えたものらしい)。
幸運かどうかは別として少なくとも棒を目にした僕たちが、あ、これ何かに使えるかもというヒント的なものとして捉えているとすれば棒に当たるのもあながち悪くない気がする。

というわけで犬棒カルタの第一回は犬も歩けば棒に当たる。
降り続く雨はない。明けない夜はない。
クレイジーキャッツじゃないけれど、そのうちなんとかなるだろう(笑)という楽天的で楽しい気分でお開きです。

2026/7/31

2026年7月30日木曜日

言葉の虫干し

 先日転倒して骨折してからというもの、僕は日常を無意識に任せていてはいけないんじゃないか、もっと自分の行動全般を、例えば一挙手一投足に至るまで意識的に行うべきじゃないかと思いだした。

いや若者はいいんだ。ピョンピョン跳ねてもなんともないんだから。でも高齢者はふとしたきっかけで寝たきりなったり人の世話にならなければならなくなる危険性があるわけで。

それで頭に浮かんだのが「用心」という言葉だった。平安時代からある言葉だけど、この用心の他にも僕らの身の回りには親から言われたりして幼いときから身に付いている言葉がたくさんある。
思いつくままにあげてみると、転ばぬ先の杖とか、急(せ)いては事をし損じるとか、急がば回れとか、 安物買いの銭失いとか・・・。

そういった言葉の多くは最初に耳に入ったときにはなるほどなぁと思っても、あっという間に意識の関門を通過して甲子園球場の何倍もの広さがある無意識の倉庫の奥深くに仕舞い込まれてしまう。

意識の関門を通るときに通行手形をもらっているので、用があったら手形を使って意識の表面に再登場してもいいようなもんだけど、実際にはほとんど日の目を見ることはない。
日常生活でも「山田くん、焦っちゃいかんよ。急いては事をし損じると言うじゃないか」なんていう小津安二郎の映画にでも出てきそうな言葉は聞いたことがない。

でも例えばずっと昔に大津波があった場所に「ここより下に家を建てるな」という言い伝えや石碑がちゃんと残っていていつも意識の日の目を見るのを待っているように、言い古された言葉もたまには虫干しして、ポンポンとほこりをはたいてみれば思わぬ発見があるかもしれない。

そういった言葉の多くはことわざなんかに多いけど、僕は今回ちょっと思うところがあって犬棒カルタを取り上げてみたいと思う。怪我で当分カヤックに行けない暇つぶしみたいなものなので付き合ってくれる人にはとんだ迷惑だけど。

2026/7/30



2026年7月29日水曜日

ATOKふたたび

 僕は元々ATOK使いだったが2年前にブログを書いていてたびたび変な変換に出くわした。
例えばATOKで「おもわばおもえ」とキーを打つと「面輪場おもえ」になる。 面輪場って何だ?Google日本語変換ならちゃんと「思わば思え」に変換される。Microsoft IMEも問題なし。
またATOKで「いりようになる」と打つと「入りようになる」と変換されるがGoogle日本語変換だと「入用になる」と変換される。「~ということで」はATOKは「~と言うことで」と変換されてしまう。
ブラインドタッチでサクサク入力しているときに変換で躓くとそこで一旦思考のリズムが途切れてしまう。だからどのFEP(※)を使うかは結構大事なのだ。それでちょっと嫌気が差して2年前にATOKを解約してGoogle日本語入力に乗り換えた。

ところが最近Googleで単漢字変換すると変な候補がいっぱい表示されてなかなか希望の漢字にたどり着かないという現象が増えてきた。探しているのはよく使う普通の漢字なのにほとんど使わない漢字がズラズラッと並んでいたりする。以前はそんなことなかったのに。

うーん、そうか、Googleもダメか。MicrosoftのCopilot keyboardもまだまだこなれていないようだし、じゃあ久しぶりに最新のATOKを試してみるかと思ってインストールしてみたらさっき挙げたヘンテコな変換はクリアー出来てるし、さらにいろいろ難しい変換もやらせてみたが何だかとてもよくなっている。PCに残っていたユーザー辞書も勝手に引き継いでくれたのもうれしい。
年間プレミアム7,920円は高いけど一ヶ月の試用期間で問題なければATOKerに戻るか。

※:最近はFEP(Front End Processor)と言わずにIME(Input Method Editor)というらしい。

2026/7/29


2026年7月25日土曜日

用心。用心。常に用心。

 先日骨折をした。カヤックのトグルを右手で掴んで陸に引き上げようとしたのだが、岩場で足をすべらせて転倒。身体を支えようとした左の手首に激痛が走った。
小学校にあがってすぐにプールサイドで転倒して左肘骨折したことがあって、でもそのときはそれほど痛いと思わなかったが今回は目から火が出るほど痛かった。骨折ってこんなに痛かったのか。翌日の手術の後もさらに痛みが酷くて、左腕全体をアフリカゾウに踏まれているような(いや誇張じゃなくて本当に!)、少しマシになるとインドゾウ、その次がマントヒヒと、腕に乗ってくる動物は変われど身の置きどころのない痛みに身悶えて輾転反側。痛みは周期的にやってくる。ましになったかと思ってしばらくするとまた強烈な痛みがやってきて、今度はヒグマに左腕を甘噛されて振り回されているんじゃないかと、まあ、そういう凶暴な痛みも徐々に薄らいでなんとか今日を迎えることが出来た。

さてでも今日書きたかったのは痛みの話じゃなく用心について。
僕は10年近く前にメニエールになってそれからというもの難聴とめまいとの長い付き合いが続いている。もともと人の話を聞かないタイプなので難聴は苦痛ではない(不便だけど)が、めまいはやっかいだ。
常に目が回っているわけではないので幸い普通に生活できているが、ふとした拍子に、例えばつばを飲み込んだりゲップしたり、耳元で大きな音がしたり、そういった瞬間にクルッと目が回る。たぶん耳管の内圧の変化や聴覚刺激で内耳道内の蝸牛神経と前庭神経が電気的に混線してめまいを引き起こしているのだろうと想像している。
ま、それはともかくその手のヒョイッとした一瞬のめまいがクセ者で、これが原因でなにかに頭をぶつけたり足を滑らしたり転倒したりする。

だから以前「日常生活の冒険者たち」(リンク)という文章を書いたけど本当に気を付けなければならない。
今回の転倒骨折はめまいのせいじゃないけど、足を乗せる岩が苔でヌメっていることは以前から知っていたのに油断してしまったのだ。
それで今日頭に浮かんだのが「用心」という言葉。
用心っていつ頃から使われだした言葉なのだろう、そして本来の語義は?と調べてみたら

1. いつ頃から使われ始めたのか?

  • 初出(平安時代初期) 記録に残る最も古い例(初出)は、平安時代の9世紀前半(835年頃)、空海の弟子たちが編纂した詩文集『性霊集(しょうりょうしゅう)』とされています。
  • 武家社会への定着(鎌倉時代): 鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』(1181年の記述)などでは、敵の襲撃や刺客に備えるといった「警戒・防衛」の意味で盛んに使われるようになりました。
  • 「火の用心」としての広がり(安土桃山〜江戸時代): 安土桃山時代、本多重次が妻へ送ったとされる有名な手紙「一筆啓上 火の用心…」や、江戸時代の防火のお触れなどを通じて、庶民の日常生活に「火の用心」というフレーズとともに深く浸透していきました。

2. 本来の語義と漢字の成り立ち
漢字をそのまま解釈すると「心を用いる(配る・使う)」となり、本来の語義は以下の通りです。
根本的な語義:「心づかい」「気配り」
本来は「周囲や物事に対して配慮し、心を砕くこと(意識を働かせること)」全般を指していました。
・本来の意味: 心づかい、配慮、意を払うこと、事前準備
・派生した意味: 万一の危険や災いに備えて注意を怠らないこと(警戒)

ということらしい(以上Gemini AIによる)。
「周囲や物事に対して配慮し、心を砕くこと(意識を働かせること)」
つまり無意識君に任せていた仕事を意識君にさせるということ。一挙手一投足を意識の管理下に置くということ。いや100%は無理だけど、なにか不測の事態が起きそうな場面や何か起きると取り返しのつかない事故に繋がりそうな場面では無意識君から仕事を取り上げて意識君に仕事をさせることが重要なのではないだろうか。
そういうわけで、今日の標語は用心。用心。常に用心。

2026/7/25

2026年7月10日金曜日

上下がズレる

 



僕は以前よく赤瀬川原平さんの「二つ目の哲学(ステレオ日記)」という本で立体視を楽しんでいたが60歳になった頃から2つの画像を脳内で重ね合わせることが出来なくなった。
どういうことかというと、左右の写真を同じ距離まで近づけることはできるのだが、上下がズレていて重ね合わせられないのだ(本を少し斜めにすると重ねることが出来る)。
僕はそのことをあまり問題視(笑)していなかったのだが最近そのズレが大きくなってきた。

僕の場合は右の視界が左よりも少し下に見える。それで3年前に今のメガネを作ってもらったときにそのことを眼鏡士に伝えて右のレンズの中心点を少し上にズラしてもらったら見え方が楽になったのだが、先日ふとしたことで左のレンズに傷が入ってしまった。左だけでもレンズを新調しようと思って眼鏡屋さんへ行って相談したら3年経って視力も変わっているだろうから検査しましょうと。

調べてもらったら左右とも近視が2段階ゆるくなっていた。そうかー。それで最近パソコンのモニター画面が見づらくなっていたのか、じゃあせっかくだから左右ともレンズを新調しましょうと。そこで例の上下のズレについて眼鏡士さんに話してみたらプリズムレンズというのがありますと。それを検眼枠にはめてもらったらびっくりするほど視界がスッキリして上下のズレが無くなった。レンズを注文するときにこれを追加してもらえばよいのだ(3,000円くらい余計にかかるのと少しだけレンズが分厚くなる)(注1)。

えーーーっ!?こんな簡単なことで長年困っていたことが解決するのか。ちょっとビックリして笑ってしまった。ネットで調べてみるとこれはサギングアイ症候群といって高齢者の斜視の原因のかなりの割合(60〜80代以上の高齢者では半数以上)を占めているらしい(注2)。

サギングアイ症候群というのは簡単にいうとトシをとったせいで目玉を支える組織が緩んで目玉自体が下方移動することで生じる斜視のことで、誤解・誤報のリスクを承知の上でいえば、笑点で落語家が座布団3枚の上に座っていたのが2枚抜かれて座布団1枚の上に座れば自分が下がった分観客席が上に見えますよね。
だから僕の場合は右目の視界が左目よりも下に見えるということは、左目の視界が右目よりも上に見えているということで、これは左目の座布団が減って左目が下に下がったせいだと。
とまあ、まだ注文したばかりで出来上がりは実際どうなのかについては後日この記事に追加するとして、専門の方からこの説明は間違っているというご指摘があれば訂正もしくは削除させていただきますのでご連絡下さい。

注1:プリズム度数に応じて、レンズ全体に「傾き(厚みの偏り)」を持たせた特殊設計のレンズをメーカーが削り出します。
注2:斜視の原因は様々でありほかに問題がある場合もあるのでまずは眼科受診を(必要に応じて「脳神経外科」や「神経内科」へ紹介される場合もあります)。

2026/7/10