2026年8月3日月曜日

憎まれっ子世にはばかる


憎まれっ子の心の底には膝を抱えて泣いている小さな男の子がいる
読み人知らず



犬棒カルタの「に」は憎まれっ子世にはばかるです。
憎まれっ子は世の中にたくさんいます。こういったひとがなぜ社会的に成功し「世にはばか」ってしまうのか?
またこういったタイプの人は我々には思いも寄らないタイミングで犯罪を犯したり自死してしまったりすることがありますがそれはなぜなのか。

人格障害には「自己愛性人格障害」というジャンルがあります。
それは主に以下の三つの傾向があるとされます。

  • 自分は特別という妄想
  • 過剰な承認欲求
  • 共感性の欠如

憎まれっ子は自分は特別だ、もっと褒められるべきだと思っているので鼻持ちならないし、共感性が欠如しているので嫌われる。
誰しも多少はこういう傾向を持っていると思うのですが、精神に破綻を来す可能性があるかどうかは妄想がどの程度関わっているかどうか。

それで思い出すのが精神科医の春日武彦氏が内田樹氏との対談で「人間の精神のアキレス腱(統合失調症などの前駆症状や、人間を不幸にする要素)」として
「こだわり」「プライド」「被害妄想(被害者意識)」
をあげておられ、確かこの順番でより事態は深刻だと述べておられたように思う。

人としての成長過程で無条件の愛に恵まれていなかったり、不当な扱いを受けて過剰なコンプレックスを持ってしまったり、あるいは逆に優れた人間になるべく親から過剰な刷り込みが行われたりすると、実際の自分よりもはるかに大きな「妄想としての自我」(オレ様は偉いんだ)を持ってしまうことがある。

こういったひとが愛や称賛に飢えているのは、「妄想としての巨大な」自我に見合った愛情や称賛を受けていないからだと感じているからであり、そこにこだわり、プライド、被害妄想が生まれてくる。

無条件の愛をもらえなかった個体は、愛を与えなかった側に問題があるのではなく、自分に愛される資格がなかったからではないかという自虐感を持つ。
その自虐感に堪えられないから、僕の巨大で偉大な自我、愛と称賛に値するこの自我(自分は特別という妄想)を、周りの人はぼんくらだから見えないのだ(過剰な承認欲求)。あいつらはぼんくらなのだから一顧だに値しない(共感性の欠如)と考える。

このとき自分の自我を妄想上の巨大な自我に見合う大きさにするために懸命に努力すれば、世間から称賛される偉大な人物になって「世にはばかる」だろう。
しかしもし努力を怠けたり努力が報われなかったりするとそれによる敗北感を打ち消すためや自分を慰めるための妄想はさらに巨大になり、それがあまりに巨大になると実際の自我とのギャップから来る矛盾や世間の評価との軋轢に耐えきれなくなり精神に破綻をきたしてしまったり、犯罪を犯してでも巨大な自我に追いつこうとしたり、不可能と感じて自死してしまったりする。

この言葉が犬棒カルタにまで取り上げられているということは、こういった種類の人格障害は昔から多かったし、実際その病理はポピュラーなものとして世間に受け入れられていた、というより知られていて注意喚起されていたということなのかもしれません。
いや僕の勝手な妄想ですが。

2026/8/3


2026年8月2日日曜日

花より団子



犬棒カルタの3番目の「は」は花より団子。
花より団子といっても何も思いつくことがない。
犬棒カルタを順番に書いていくのはなかなか難しいと早々と実感。
困ったが、そこで小林秀雄が講演会で正宗白鳥のことをしゃべっていたのを思い出した。
どれも愉快で楽しいがそのなかにひとつ、正宗白鳥が小学校に上がって間もない頃の思い出を紹介している。
ある時先生が生徒達に宿題を出した。桜が満開だったのでそのことについて作文を書くように言った。
正宗の家では毎年庭の八重桜が咲くと祖母の作ったごちそうの弁当を食べながら花見をするのが習わしであったが、その時はまだ八重桜は咲いておらず、したがって花見もまだであった。そこで困った正宗少年は白紙のまま作文を提出した。
先生がこれでは零点だ、何か書けと言う。しかし正宗少年が何も思いつかないと言うので困った先生は意外なことを言う。
以下正宗白鳥の「花より団子」(青空文庫)からの引用(リンク)。

「どうしたのぢや。何も書いてないと零点だぜ」 
「しやうがありません」 
「何か書きなさい。今は桜の盛りぢや。花は桜木、人は武士と云ふことを君も聞いとるだらう」 
「知りません」 
「咲いた桜になぜ駒つなぐ、駒がいさめば花が散ると云ふ唄聞いたことないか」 
「聞きません」 
「それでは花より団子。君も団子の方が好きなんだらう。花見に行つて団子をたべたと書いたらいいぢやないか」
先生にさう云はれると、私はその通りに書かうかと思つた。
桜の花を楽むよりも団子でも食べたいと思ひながら筆を執つてゐると、桜の花が団子のやうに見えだした。
団子が串に差されて立つてゐるのが満開の桜の形か。私はさう思ひ出すと、それが面白くなつた。 「花見の記」が団子の記になつた。
団子が咲いた咲いたと書いた。
先生はそれを取上げていい点をつけて呉れた。この先生も剽軽であつたのか。
でも、私にも団子は団子、桜は桜。団子は口にうまいもの、桜は目に美しいもの。
或日、隣の家から貰つた団子を腹一杯食べた私は、離れの庭にぽつりぽつりと咲きだした花を、自分一人で見上げてゐたが、膨らんだ団子腹を消化させる気になつたのか、その桜の木にするすると登つて、咲く花を一握り掴んで口の中へ入れた。
うまいまづいの感じではなく、綺麗なものを、口から喉を通して腹に入れたやうな感じがした。さうして、二握り三握り、むしゃむしゃと喰つたのであつた。
それ以上は喰へさうでなかつたが、さうしたあとで木から飛下りて、花から花を見上げてゐると、「こんな綺麗な花の味を誰も知るまい」と、それを面白いことのやうに考へだした。いくら美しくつても、これは人間のたべ物ぢやないと思はれたので、誰にも云はなかつた。
だが、あくる日、午餐のあとで、その離れの庭に出ると、昨日にもまして花の色づいたのに心惹かれて、またその木に登つて、二握り三握りつかみ取つて、口から喉へ通した。
味がどうであらうと、綺麗なものを腹に入れたといふ気持は快くなつた。
家の者に気づかれないうちにどれほどのものが喰はれるかと、人知れぬ異様なたのしみになつた。

小林秀雄はこの文章を読んだときの印象をその講演で述べているが、自分が感じたことを正直に書くと言うこと、逆に言えば感じ得なかったことについては一言半句も決して述べないというのが正宗白鳥の文芸活動の本質であり、幼くしてすでにその萌芽が彼のこの体験に現れているじゃないかと語っている。

2026/8/2



2026年8月1日土曜日

論より証拠



犬棒カルタの第2回は「ろ」。
関東では「ろ」は「論より証拠」ですが、関西では「ろ」は「論語読みの論語知らず」。
いかにも権威嫌いの関西らしいですが今回は関東説を採用しましょう。

論より証拠。
犬棒カルタのなかでは今でも比較的によく使われることわざではないでしょうか。

「せやからゆうてるやろ!このナベにこの蓋は合わへんて!」
「けどこのナベを買うたときにお店の人が30cmの蓋やったらどんな蓋でもこのナベにバッチリ合うって言うてたから・・・」
「ほな、この吹きこぼれをどない説明すんねん!論より証拠って言うやろが!」

って、あんまり言わへんか。
今の国会でも何の根拠もない週刊誌ネタで国会を紛糾させていますが、こういったことって「この件に関して明確な証拠がないなら発言を禁止します」と司会者が言えば済むことなんじゃないのかな。
ま、それはともかく理屈や推論と現実がぶつかったとき、現実派が前者にとどめを刺す決め台詞だったりします。

僕は最近量子力学にちょっと興味があって関連する本を買ったり理論物理学者がYouTubeでしゃべったりしているのを聞くのが好きなのですが、かのニュートンが有名な運動法則を発表してから200年ほど経ってからどうもおかしいんじゃないかと。彼の法則で計算した水星の軌道と実際の軌道との間にごくわずかなズレがある。

で、それから百年も経たないうちにアインシュタインが「重力っちゅうのは時空のゆがみや!重力ちゅうのはな、ニュートンはんの言うてる「力」やない、ゆがみや!」という新しい理論を考えてその理論をもとに計算すると、ニュートンの計算した水星の軌道と観測結果との誤差が完全に一致し、それによってニュートン理論の限界(瑕疵)が明らかになったというのです。
いわばニュートン理論のナベの蓋からわずかに吹きこぼれてくるお汁をきっかけにしてナベを買い換えなあかんような・・・。

「せやからゆうてるやろ!ニュートン社のナベを使うときは中身をいっぱいまで入れたらあかんねや。いっぱいまで入れて使うねやったらアインシュタイン社製のナベでないとあかんのや」

このおっさんが言うように日常的な世界では今もニュートン理論が有効ですが限界に近づくと吹きこぼれるということのようです。

証拠は確かに推論をひっくり返しますがあまりに証拠を振り回すと身も蓋もないし、さらに世の中には間違った証拠を振り回して多くの人に迷惑をかけるひともいるわけで。
我が身を省みて注意しないといけませんね。


2026/8/1




2026年7月31日金曜日

犬も歩けば棒に当たる



犬棒カルタの記念すべき第一回はご存じ「犬も歩けば棒に当たる」です。
犬棒カルタにはよくわからないものもいくつかありますがこれはそのなかでもとくにわからない。

棒に当たるってなんだろう?
今どき道を歩いていて棒に出くわすことはほとんどありません。
昔は多かったのかな?建材だろうか?何かの道具?
確かに僕の小さい頃は空き地なんかによく棒が落ちていた。僕はその棒をバット代わりにして王貞治気分で石を打ったりしたものだ。

それが何の棒であるにせよ、犬に当たるためには棒は立っていないといけない。なぜ立っているのかわからないが、犬にしても歩いていてむざむざ立っている棒に当たるほど馬鹿じゃないだろう。
とするとこの棒の向こう側にはヒトがいて、エサを探してうろつく犬を叩こうと待ち構えているわけだ。
つまりこのことわざは意味もなくうろついていると碌な目に遭わないぞと。目的を持って、しっかり前を向いて歩きなさいよと。
うーん、それではなんだかつまらない。よくわからないがそれでは意味が浅い気がする。

「犬も歩けば」というのは犬でさえという意味だろう。
もし「棒」が不運のメタファーであるなら、主語は良い人、つまり不運に出くわすのに似つかわしくないものでなければならない。
例えば「仏陀も歩けば棒に当たる」とか「空海も歩けば棒に当たる」とすれば、あの素晴らしい仏様や空海様でさえ用もなく出歩けば不運に出くわすのだ、ましてやバチ当たりな我々においてをやと。くわばらくわばら、とこうなる。

ひるがえって「棒」が幸運のメタファーであったら主語はつまらないもののほうが意味が引き立つだろう。とるに足らない犬でさえ当てもなく歩いているうちに何かいいことに出くわすことがあるものだ、ましてやわれわれ人間においてをや。ありがたやありがたやと、確かにこの方がすっきりする。

ただし、棒ってはたして幸運のメタファーだろうか?
映画「2001年宇宙の旅」で類人猿が手にした骨を武器(棒)として使用したのち、空へ放り投げた骨が宇宙船に変わるシーンを思い出す。
僕が空き地で見つけた棒をバットに使ったように、棒は古代の人達にとって手では届かない高い木の実を落としたり、穴を掘ったり、重いものをてこにして動かしたり、車軸にしたり、武器にしたりという、いわば多様な目的に使うことの出来る道具として姿を現したのではないか。人類にとって、初めての「手の延長」。それは大きな喜びであったに違いない。

日本では棒を幸運のメタファーとする歴史はあまり見当たらないが、英語圏では「幸運が逃げないように」と祈りを込めて、近くにある木の棒(stick)をトントンと叩く習慣があったり、クリスマス・イブに丸太を暖炉で燃やしてその灰を翌年まで取っておくことで家を落雷や火災から守り翌年の一家に幸運をもたらすという風習が残っているようだ(ケーキの「ブッシュ・ド・ノエル(クリスマスの丸太)」はこれが形を変えたものらしい)。
幸運かどうかは別として少なくとも棒を目にした僕たちが、あ、これ何かに使えるかもというヒント的なものとして捉えているとすれば棒に当たるのもあながち悪くない気がする。

というわけで犬棒カルタの第一回は犬も歩けば棒に当たる。
降り続く雨はない。明けない夜はない。
クレイジーキャッツじゃないけれど、そのうちなんとかなるだろう(笑)という楽天的で楽しい気分でお開きです。

2026/7/31

2026年7月30日木曜日

言葉の虫干し

 先日転倒して骨折してからというもの、僕は日常を無意識に任せていてはいけないんじゃないか、もっと自分の行動全般を、例えば一挙手一投足に至るまで意識的に行うべきじゃないかと思いだした。

いや若者はいいんだ。ピョンピョン跳ねてもなんともないんだから。でも高齢者はふとしたきっかけで寝たきりなったり人の世話にならなければならなくなる危険性があるわけで。

それで頭に浮かんだのが「用心」という言葉だった。平安時代からある言葉だけど、この用心の他にも僕らの身の回りには親から言われたりして幼いときから身に付いている言葉がたくさんある。
思いつくままにあげてみると、転ばぬ先の杖とか、急(せ)いては事をし損じるとか、急がば回れとか、 安物買いの銭失いとか・・・。

そういった言葉の多くは最初に耳に入ったときにはなるほどなぁと思っても、あっという間に意識の関門を通過して甲子園球場の何倍もの広さがある無意識の倉庫の奥深くに仕舞い込まれてしまう。

意識の関門を通るときに通行手形をもらっているので、用があったら手形を使って意識の表面に再登場してもいいようなもんだけど、実際にはほとんど日の目を見ることはない。
日常生活でも「山田くん、焦っちゃいかんよ。急いては事をし損じると言うじゃないか」なんていう小津安二郎の映画にでも出てきそうな言葉は聞いたことがない。

でも例えばずっと昔に大津波があった場所に「ここより下に家を建てるな」という言い伝えや石碑がちゃんと残っていていつも意識の日の目を見るのを待っているように、言い古された言葉もたまには虫干しして、ポンポンとほこりをはたいてみれば思わぬ発見があるかもしれない。

そういった言葉の多くはことわざなんかに多いけど、僕は今回ちょっと思うところがあって犬棒カルタを取り上げてみたいと思う。怪我で当分カヤックに行けない暇つぶしみたいなものなので付き合ってくれる人にはとんだ迷惑だけど。

2026/7/30



2026年7月29日水曜日

ATOKふたたび

 僕は元々ATOK使いだったが2年前にブログを書いていてたびたび変な変換に出くわした。
例えばATOKで「おもわばおもえ」とキーを打つと「面輪場おもえ」になる。 面輪場って何だ?Google日本語変換ならちゃんと「思わば思え」に変換される。Microsoft IMEも問題なし。
またATOKで「いりようになる」と打つと「入りようになる」と変換されるがGoogle日本語変換だと「入用になる」と変換される。「~ということで」はATOKは「~と言うことで」と変換されてしまう。
ブラインドタッチでサクサク入力しているときに変換で躓くとそこで一旦思考のリズムが途切れてしまう。だからどのFEP(※)を使うかは結構大事なのだ。それでちょっと嫌気が差して2年前にATOKを解約してGoogle日本語入力に乗り換えた。

ところが最近Googleで単漢字変換すると変な候補がいっぱい表示されてなかなか希望の漢字にたどり着かないという現象が増えてきた。探しているのはよく使う普通の漢字なのにほとんど使わない漢字がズラズラッと並んでいたりする。以前はそんなことなかったのに。

うーん、そうか、Googleもダメか。MicrosoftのCopilot keyboardもまだまだこなれていないようだし、じゃあ久しぶりに最新のATOKを試してみるかと思ってインストールしてみたらさっき挙げたヘンテコな変換はクリアー出来てるし、さらにいろいろ難しい変換もやらせてみたが何だかとてもよくなっている。PCに残っていたユーザー辞書も勝手に引き継いでくれたのもうれしい。
年間プレミアム7,920円は高いけど一ヶ月の試用期間で問題なければATOKerに戻るか。

※:最近はFEP(Front End Processor)と言わずにIME(Input Method Editor)というらしい。

2026/7/29


2026年7月25日土曜日

用心。用心。常に用心。

 先日骨折をした。カヤックのトグルを右手で掴んで陸に引き上げようとしたのだが、岩場で足をすべらせて転倒。身体を支えようとした左の手首に激痛が走った。
小学校にあがってすぐにプールサイドで転倒して左肘骨折したことがあって、でもそのときはそれほど痛いと思わなかったが今回は目から火が出るほど痛かった。骨折ってこんなに痛かったのか。翌日の手術の後もさらに痛みが酷くて、左腕全体をアフリカゾウに踏まれているような(いや誇張じゃなくて本当に!)、少しマシになるとインドゾウ、その次がマントヒヒと、腕に乗ってくる動物は変われど身の置きどころのない痛みに身悶えて輾転反側。痛みは周期的にやってくる。ましになったかと思ってしばらくするとまた強烈な痛みがやってきて、今度はヒグマに左腕を甘噛されて振り回されているんじゃないかと、まあ、そういう凶暴な痛みも徐々に薄らいでなんとか今日を迎えることが出来た。

さてでも今日書きたかったのは痛みの話じゃなく用心について。
僕は10年近く前にメニエールになってそれからというもの難聴とめまいとの長い付き合いが続いている。もともと人の話を聞かないタイプなので難聴は苦痛ではない(不便だけど)が、めまいはやっかいだ。
常に目が回っているわけではないので幸い普通に生活できているが、ふとした拍子に、例えばつばを飲み込んだりゲップしたり、耳元で大きな音がしたり、そういった瞬間にクルッと目が回る。たぶん耳管の内圧の変化や聴覚刺激で内耳道内の蝸牛神経と前庭神経が電気的に混線してめまいを引き起こしているのだろうと想像している。
ま、それはともかくその手のヒョイッとした一瞬のめまいがクセ者で、これが原因でなにかに頭をぶつけたり足を滑らしたり転倒したりする。

だから以前「日常生活の冒険者たち」(リンク)という文章を書いたけど本当に気を付けなければならない。
今回の転倒骨折はめまいのせいじゃないけど、足を乗せる岩が苔でヌメっていることは以前から知っていたのに油断してしまったのだ。
それで今日頭に浮かんだのが「用心」という言葉。
用心っていつ頃から使われだした言葉なのだろう、そして本来の語義は?と調べてみたら

1. いつ頃から使われ始めたのか?

  • 初出(平安時代初期) 記録に残る最も古い例(初出)は、平安時代の9世紀前半(835年頃)、空海の弟子たちが編纂した詩文集『性霊集(しょうりょうしゅう)』とされています。
  • 武家社会への定着(鎌倉時代): 鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』(1181年の記述)などでは、敵の襲撃や刺客に備えるといった「警戒・防衛」の意味で盛んに使われるようになりました。
  • 「火の用心」としての広がり(安土桃山〜江戸時代): 安土桃山時代、本多重次が妻へ送ったとされる有名な手紙「一筆啓上 火の用心…」や、江戸時代の防火のお触れなどを通じて、庶民の日常生活に「火の用心」というフレーズとともに深く浸透していきました。

2. 本来の語義と漢字の成り立ち
漢字をそのまま解釈すると「心を用いる(配る・使う)」となり、本来の語義は以下の通りです。
根本的な語義:「心づかい」「気配り」
本来は「周囲や物事に対して配慮し、心を砕くこと(意識を働かせること)」全般を指していました。
・本来の意味: 心づかい、配慮、意を払うこと、事前準備
・派生した意味: 万一の危険や災いに備えて注意を怠らないこと(警戒)

ということらしい(以上Gemini AIによる)。
「周囲や物事に対して配慮し、心を砕くこと(意識を働かせること)」
つまり無意識君に任せていた仕事を意識君にさせるということ。一挙手一投足を意識の管理下に置くということ。いや100%は無理だけど、なにか不測の事態が起きそうな場面や何か起きると取り返しのつかない事故に繋がりそうな場面では無意識君から仕事を取り上げて意識君に仕事をさせることが重要なのではないだろうか。
そういうわけで、今日の標語は用心。用心。常に用心。

2026/7/25