犬棒カルタの「ほ」は仏の顔も三度。
僕はこのことわざは「仏の顔も三度まで」と覚えていたので無理なお願いは3回までは聞いてもらえるがそれ以上は無理ですよという意味だと思っていた。
今回犬棒カルタをネタに書くに当たってことわざのもとの意味をネットで調べるようになったのだが、これは仏さんの顔を撫(な)ぜたらいかに温和な仏さんでも3回目には怒るよ!という意味らしい。
そうか。3回まで許してもらえるんじゃなくて3回目には怒られるのか。
しかし撫ぜるという行為がわからない。ひとは仏様に何かをお願いするときに仏様の顔を撫ぜるだろうか?
それでさらに調べてみたら「撫ぜる」「なでる」というのは、かわいがったりおちょくったりすること。どうせ怒らないだろうといい気になってむやみに触るということらしい。たしかに猫もやたらになでると怒って引っ掻かれますよね。
それを仏様の立場から考えてみる。
1回目:ん?なんか触った?
2回目:こらこら気安く触るなよ。まぁ罰当たりな衆生のやることだ、大目に見てやるか。
3回目:こりゃー!!ええ加減にせんかい!なめとったら承知せんぞー!
1回目はまぁ事故ですよね。
2回目は、これは事故ではなく意図です。相手は意図を持ってなでてきた。まぁ仕方がない。許してやるか。許すか許さないかというのはこちら側が取る態度の選択です。外界からの刺激に対してこちら側の心にはある「物語」が発生し、その物語の中の主人公である「私」は「許す」という態度を選択するわけです。まぁ直情的に「許さない」という態度を選択する場合もありますが。
3回目は話の規模が大きくなります。話の主人公は「私」ではなく「公」になる。世の中にこのような不正があるべきではない。私憤が義憤に変わって義は我にあり。不義は成敗すべきである。なんか文句あっか?!と。怒りは私を離れると大きくなり、それに伴って物語は強固になり修正は困難になります。
中国は漢の武将である張良は若き日の浪人時代に武者修行の旅先で黄石公(こうせきこう)という老人に出会う。太公望秘伝の兵法の奥義を究めたというその老人は張良に対し、君は見どころがあるので奥義を伝授してやろうという。張良は喜んで先生にお仕えするのだが先生はいつまで経っても何も教えてくれない。
ある日張良が街を歩いていると向こうから先生が馬に乗ってやってきた。
そして張良の前まで来るとぽろりと左足の靴を落とす。
先生は張良に向かって「拾って履かせよ。」と命じる。
張良は何も考えず先生の足に靴を履かせる。
またあるとき張良が街を歩いていると向こうから先生が馬に乗ってやってきた。
そして張良の前まで来るとぽろりと右の靴を落とし張良に向かって「拾って履かせよ」。
張良は内心ムッとするが黙って拾って履かせる。
別の日、また街を歩いていると再び馬に乗った先生と出会う。
すると先生は今度は両足の靴をぽろぽろと落として「張良、拾って履かせよ。」という。
張良はさらにムカッとするが、黙って先生に靴を履かせる。
その瞬間張良は秘伝の奥義を会得して免許皆伝となる。
1回目は事故。2回目は私憤。3回目で公憤になりかけたところで張良は物語の外に脱出したのかもしれない。
伊丹十三の初期の短編随筆には面白いものがたくさんありますがその中の一つ、「女たちよ!」の「ひとつ ふたつ みっつ」より。
新婚の夫婦がそれぞれ馬に乗って楽しく野山を散歩していた。
林を通過しているときに低い枝が花嫁の額を打った。
それを見た夫はすかさず馬から下りて妻の乗っていた馬の顔をのぞき込んで言った。
「一つ」。
やがて二人は川縁に来た。
そこで花嫁の馬が石に躓いて花嫁は馬から落ちそうになる。
それを見た夫は先ほどと同様妻の馬の顔をのぞき込んで言った。
「二つ」。
散歩を続ける二人は野原にやってきた。そこでなんと、跳びだしてきたウサギに驚いた花嫁の馬は前足を高く蹴り上げて立ち上がり、勢い余った花嫁は草の上にどーんと落馬してしまった。
夫はスタスタと馬に近づくと、「これで三つだ」と言うなり懐から銃を取り出してあっという間に馬を射殺してしまった。
妻は仰天。「なんてことするの!馬はビックリしただけじゃないの!可哀想に。あまりに酷い仕打ちだわ。あなたは人間じゃない、ヒトデナシよ!鬼!」
夫はスタスタと妻に近づいて顔をのぞき込んで言った。
「一つ」
2026/8/5




