2026年8月20日木曜日

良薬は口に苦し



犬棒カルタの「り」は良薬は口に苦し。
「うぇっ、苦~い!」
「つべこべ言わずに飲み込みなさい!良薬は口に苦しって言うでしょ!」
という風に使います。
でも最近は薬も飲みやすくなったので苦いのは一部の漢方薬くらいかな。

現代と違ってむかしは戦争、喧嘩、事故でひとは絶えず外傷に悩まされていました。また衛生環境が整っておらず感染症に対する意識も乏しかったためウイルス感染や細菌感染や寄生虫感染は日常茶飯だったと思われます。そんな時代に人々はただ手をこまねいて悪化する事態を見ていたのでしょうか。

苦い漢方薬にはしばしば黄岑、黄連、黄柏、大黄といった黄色系の生薬が含まれています。
しかもこれら黄色系の生薬を含む漢方薬は殺菌効果や抗炎症効果があるとされています(リンク)。つまりこれらの苦い系の漢方薬は外傷や感染症など生命に危険が及ぶ可能性のある病態に対し、急いでなんとかしないといけない状況で使用される頻度が高かったと思われます。

漢方薬には慢性疾患に対し長期服用することで徐々に改善を期待する系統のものと、先ほどのように早く効果が現れることを期待する系統のものがあります。そういった状況でその薬が効かなければ人々は呆れて使わなくなるでしょうし、逆に効果があれば「良薬」として認知されるでしょう。「良薬」に実感が伴っていたからこそ生まれたことわざかもしれません。

苦い漢方薬には黄岑、黄連、黄柏、大黄といった黄色系の生薬が入っていることが多く、それらは共通して消炎・殺菌系の働きを持っているように思います。黄色系の成分がそれと関係しているのでしょうか?
以上のような質問をChatGPTに投げかけてみたところ以下のような返事を得ました。

はい、かなり鋭い着眼点です。ただし、「黄色い色そのものが消炎・殺菌作用を持つ」というより、黄色を呈する成分と薬理作用を担う成分が重なっている、と考えるのが適切です。

代表的な4つを見ると分かりやすいです。

生薬黄色の主な成分主な薬理成分代表的な作用
黄芩(おうごん)フラボノイド類バイカリン、バイカレインなど抗炎症、抗菌など
黄連(おうれん)ベルベリンなどベルベリン抗菌、抗炎症、止瀉
黄柏(おうばく)ベルベリンなどベルベリン抗菌、抗炎症、止瀉
大黄(だいおう)アントラキノン類などセンノシド、エモジンなど瀉下、抗炎症など

特に面白いのが黄連と黄柏です。両方とも非常に鮮やかな黄色をしていますが、その黄色に大きく寄与しているのがベルベリンというアルカロイドです。そしてベルベリンには実際に抗菌作用や抗炎症作用があります。

一方、黄芩の場合は黄色の中心となるのはフラボノイド系化合物で、バイカリンやバイカレインなどが抗炎症作用などに関与しています。

つまり、

「黄色い生薬には消炎・殺菌作用が多い」
→ これは経験的にはかなり当たっている。

しかし、

「黄色だから消炎・殺菌作用がある」
→ これは違う。

ということです。

なぜ黄色いものにそういう成分が集まるのでしょう?

ここが実は非常に興味深いところです。

植物の黄色~橙色を呈する物質には、フラボノイド、アルカロイド、アントラキノンなど、比較的広い種類の化合物があります。その中には植物自身が微生物や紫外線などから身を守るために作っている二次代謝産物が多く含まれます。

つまり、

植物が自分自身を守るために作った化学物質
→ 微生物の増殖を抑える
→ 人間が利用すると抗菌・抗炎症作用として現れる

というケースがあるわけです。

ただし、黄色い植物成分のすべてに抗菌・抗炎症作用があるわけではありません。

さらに面白いのは、漢方ではこのような生薬を単独ではなく、黄連解毒湯、三黄瀉心湯、黄連湯、葛根黄連黄芩湯などのように組み合わせて使います。黄連・黄芩・黄柏・大黄などが複数入る処方では、結果として**「黄色い苦い薬」**になりやすいのです。

そして「苦い」という点にも理由があります。ベルベリンなどのアルカロイドやフラボノイド類には強い苦味を示すものがあり、黄色・苦味・薬理作用が同じ化学成分に由来する場合があるのです。

ですから、かなり乱暴にまとめると、

「黄色くて苦い生薬には、植物が防御のために作った生理活性物質が多く、その中に抗菌・抗炎症作用を持つものが多い」

というのが、質問に対する一番近い答えだと思います。


ということでした。なるほど、植物が自らを守るために作り出した成分を漢方として利用しているということですね。勉強になりました。

追記:漢方薬も薬です。副作用があります。外傷・感染症を含め身体の不調を自己判断で内服治療せずに必ず医師の診療を受けて下さい。






2026年8月19日水曜日

塵も積もれば山となる




犬棒カルタの「ち」は塵も積もれば山となる。
このことわざは小さなことでも飽くことなく積み重ねていけば大きな成果を得られますよというプラスの意味合いで使われる場合と、日々の片付けを怠っているとゴミ屋敷になってしまいますよという警告的な使われ方の2種類がある。

小さい頃僕はしばしば母の自転車の後ろに乗って近くのスーパーへ行った。買い物をするとブルーチップというシールをくれる。シールを台紙に貼るのは僕の役目だったが、たくさん集めると車や電化製品や海外旅行券がもらえると知ってワクワクした。しかしあるときそのためには天文学的な数のシールを集めないといけないと知ってがっかりした。なんだかまるで、ちょっと馬鹿にされた気がした。

だからというわけでもないが塵も積もれば山となると聞くと何言ってんだという気持ちになる。実感としては、塵も積もれば山になることもあるという方が現実に近い。

じゃあ、どんなときに山になって、どんなときに山にならないのだろう。
普通は山を作ろうと思って塵を集めてもいずれは飽きる。すぐに飽きる場合もあれば、何年か努力して成果が出ないと諦めてしまう。

だからずっと続ける人というのはおそらく塵を集めるのが「好き」なんだろう。
好きな塵集めをしている間にいつの間にか山が出来ているというのが本当のところで、ずっと塵集めをする人というのは、それはもう業といってもいい。

そのことが病的なほど好きなのであって、ことわざに言われるまでもなくほっといても塵を集める。いやむしろやめろといってもやめない人たち、集めるのをやめられない人が山を作ってしまう。そしてそれはたぶん何かの役に立つために山を作ろうと思ったわけではない。

物理学者のリチャード・ファインマンは科学者を突き動かす盲目的ともいえる探究心をユーモラスな比喩で説明している。
「科学はセックスに似ている。時には何か役に立つものが生まれることもあるが、しかしそれは私たちがそれを行う理由ではない」(※)。


※:ジョルジョ・パリージ著「相転移による集団行動」第8章「科学の意味」より


2026/8/19





2026年8月15日土曜日

飛んで火に入る夏の虫


犬棒カルタの「と」は飛んで火に入る夏の虫。
「ふっ、向こうから一人で乗り込んでくるとは、まさに飛んで火に入る夏の虫だわい」なんていう風に使います。知らぬが仏、鴨が葱を背負ってやって来るなんかも同系列のことわざでしょうか。

なぜ虫は熱くて焼かれてしまうのに火に飛び込んでくるのでしょうか。
明るいのが好きだから?暖かいのが好きだから?
この謎の答えがわかったのは実はごく最近なのです(リンク)。

従来虫は光源に向かって飛んでいくと考えられていましたが虫の飛行軌道を精密に分析すると虫は光に向かって飛ぶのではなく背中に光が当たるように飛んでいることがわかった。

えーとですね、フライトシミュレータをやったことがあるひとはわかると思うけど、敵機を追いかけているうちに機体がクルクル回転してどっちが上かわからなくなることがありますよね。僕達は地面の上に立っているときはどっちが上でどっちが下かわかるけど(僕は最近メニエールでわからなくなります(笑))、フライトシミュレータで飛行機が宙返りしても実際に飛行機に乗っているわけではないので重力の向きがわからない。だからキリキリ舞いする。
虫は三半規管がないので上下がわからない。そこで彼らはどうするかというと太陽を背にすることで水平飛行できるということを覚えた。これを背光反応といいます。
太陽が上にあるときは問題ない。太陽光は平行光線なのでどこまで行っても光は上にある。月も同じですよね。どこまで行っても月は付いてくる。

ところが火や電灯は点光源です。
今、火もしくは電灯が虫である私の左にあるとする。
すると私は本能に従って身体を反時計回りに90°回転し背中を光に向ける。
そしてそのまま10㎝進むとする。
すると光源は斜め後方に移動する。
その光源を背中に受けるためには機首を上げて左旋回しなければならない。
左旋回してさらに10cm進むとなぜか光源はまたしても斜め後方に移動する。
私は慌ててさらに機首を上げて左旋回する。
これを繰り返しているうちに私は頭がおかしくなってくる。
一所懸命背中に光を受けようとしているのに、そしていつもなら一回修正すればすむのに、いつまで経っても、どんだけ軌道を修正しても背中に光を受けられない。
私は疲れてきた。
飛行速度が落ちてきた。
飛行速度が落ちるとともに遠心力が低下。
しかし方向舵は上を向いたままで左回転持続。
円周軌道の半径は縮小し私は火の中へ。

と、こういう理屈らしい。
もちろん虫の中には「えーい、こんなことしてたら飛んで火に入る夏の虫だ!オレは一抜けるぜ!」と無限円運動から脱出する勇気ある虫もいるかもしれません。しかし本能に逆らうのは難しいですね。ついつい飲み過ぎてしまったり食べ過ぎてしまったり。植木等じゃないけど、わかっちゃいるけどやめられない。いやいやそれではダメだ!オレは勇気を出して円運動から脱出するぞ!がんばるぞ、おー!
ということわざの本来の意味から大きく離脱した結論で今日のお話はおしまいです。


2026/8/15


2026年8月9日日曜日

下手の横好き



犬棒カルタの「へ」は下手の横好き。ヘタはわかるけど横好きって何?と思って辞書で調べてみると
横好き:うまくもないのに、むやみに好きなこと。(大辞林)

うまくもないのにむやみに好き。
うーん、身も蓋もないというか。まぁその通りなんだけど。
僕自身写真を撮り始めた20年ほど前はもう楽しくてしようがなかった。寝ても覚めても写真やカメラやレンズのことばかり。それまで仕事一辺倒だったので、パーッと世界が広がって、自分はかつてトイレットペーパーの芯からしか世界を見ていなかったのかと知ったときの驚き。
何を撮っても楽しくて、それはもう、盲目で生まれついた人がある日突然奇跡が起こって目が見えるようになったら世界はきっとこんな風に見えただろうというイメージ通りの楽しい日々が待ち受けていた。

それから幾星霜。
どんどん横道に入って行き止まりから引き返したり、怪しい道に入ってみたり、激しい憧れから大金を投じたものの悲しい思いで売却したり。
カメラはともかくレンズはみな違う。それはいわば世界中の女性みたいなものでいろんな女性と恋に落ちるみたいに出会ったレンズはそれぞれ違う世界を見せてくれる。
自分に合うレンズもあれば合わないレンズもある。
一頃激しく燃え上がってもやがて恋は冷めて別れがやってくる。
別れた後も焼け木杭に火が付いてよりを戻すこともある。
付き合い方を間違っていたために別れてしまったが何年も経ってからああ、僕は間違っていた!と気が付いて買い戻したり。
あれ?何の話をしてたんだっけ。

そうそう、下手の横好き。このことわざは
「お上手ですな!」
「いやいや下手の横好きでして、ハハハ」
というふうに謙遜するときに使われる。
一方、好きこそものの上手なれということわざもある。
「お上手ですな!」と言われて
「いやいや、好きこそものの上手なれですわ」
と答えると相手はムッとするだろう。

「いいカメラをお持ちですな!」と言われて
「いやいや豚に真珠ですわ」と答えればいいけれど
「いやいや、弘法筆を選ばずですわ」と答えれば相手はムッとするだろう。

「いいレンズですな!」と言われて
「いやいや猫に小判ですわ」と答えればいいけれど
「いやいや、鬼に金棒ですわ」と答えれば相手はムッとするだろう。

「いい天気ですな!」と言われて
「寝耳に水ですわ」と答えれば相手はきょとんとするだろう。

ことわざは上手に使いましょう、というわけのわからないアドバイスで今日はおしまいです。

2026/8/9

2026年8月5日水曜日

仏の顔も三度



犬棒カルタの「ほ」は仏の顔も三度。
僕はこのことわざは「仏の顔も三度まで」と覚えていたので無理なお願いは3回までは聞いてもらえるがそれ以上は無理ですよという意味だと思っていた。

今回犬棒カルタをネタに書くに当たってことわざのもとの意味をネットで調べるようになったのだが、これは仏さんの顔を撫(な)ぜたらいかに温和な仏さんでも3回目には怒るよ!という意味らしい。

そうか。3回まで許してもらえるんじゃなくて3回目には怒られるのか。
しかし撫ぜるという行為がわからない。ひとは仏様に何かをお願いするときに仏様の顔を撫ぜるだろうか?
それでさらに調べてみたら「撫ぜる」「なでる」というのは、かわいがったりおちょくったりすること。どうせ怒らないだろうといい気になってむやみに触るということらしい。たしかに猫もやたらになでると怒って引っ掻かれますよね。

それを仏様の立場から考えてみる。
1回目:ん?なんか触った?
2回目:こらこら気安く触るなよ。まぁ罰当たりな衆生のやることだ、大目に見てやるか。
3回目:こりゃー!!ええ加減にせんかい!なめとったら承知せんぞー!

1回目はまぁ事故ですよね。
2回目は、これは事故ではなく意図です。相手は意図を持ってなでてきた。まぁ仕方がない。許してやるか。許すか許さないかというのはこちら側が取る態度の選択です。外界からの刺激に対してこちら側の心にはある「物語」が発生し、その物語の中の主人公である「私」は「許す」という態度を選択するわけです。まぁ直情的に「許さない」という態度を選択する場合もありますが。
3回目は話の規模が大きくなります。話の主人公は「私」ではなく「公」になる。世の中にこのような不正があるべきではない。私憤が義憤に変わって義は我にあり。不義は成敗すべきである。なんか文句あっか?!と。怒りは私を離れると大きくなり、それに伴って物語は強固になり修正は困難になります。

中国は漢の武将である張良は若き日の浪人時代に武者修行の旅先で黄石公(こうせきこう)という老人に出会う。太公望秘伝の兵法の奥義を究めたというその老人は張良に対し、君は見どころがあるので奥義を伝授してやろうという。張良は喜んで先生にお仕えするのだが先生はいつまで経っても何も教えてくれない。
ある日張良が街を歩いていると向こうから先生が馬に乗ってやってきた。
そして張良の前まで来るとぽろりと左足の靴を落とす。
先生は張良に向かって「拾って履かせよ。」と命じる。
張良は何も考えず先生の足に靴を履かせる。
またあるとき張良が街を歩いていると向こうから先生が馬に乗ってやってきた。
そして張良の前まで来るとぽろりと右の靴を落とし張良に向かって「拾って履かせよ」。
張良は内心ムッとするが黙って拾って履かせる。
別の日、また街を歩いていると再び馬に乗った先生と出会う。
すると先生は今度は両足の靴をぽろぽろと落として「張良、拾って履かせよ。」という。
張良はさらにムカッとするが、黙って先生に靴を履かせる。
その瞬間張良は秘伝の奥義を会得して免許皆伝となる。

1回目は事故。2回目は私憤。3回目で公憤になりかけたところで張良は物語の外に脱出したのかもしれない。

伊丹十三の初期の短編随筆には面白いものがたくさんありますがその中の一つ、「女たちよ!」の「ひとつ ふたつ みっつ」より。

新婚の夫婦がそれぞれ馬に乗って楽しく野山を散歩していた。
林を通過しているときに低い枝が花嫁の額を打った。
それを見た夫はすかさず馬から下りて妻の乗っていた馬の顔をのぞき込んで言った。
「一つ」。
やがて二人は川縁に来た。
そこで花嫁の馬が石に躓いて花嫁は馬から落ちそうになる。
それを見た夫は先ほどと同様妻の馬の顔をのぞき込んで言った。
「二つ」。
散歩を続ける二人は野原にやってきた。そこでなんと、跳びだしてきたウサギに驚いた花嫁の馬は前足を高く蹴り上げて立ち上がり、勢い余った花嫁は草の上にどーんと落馬してしまった。
夫はスタスタと馬に近づくと、「これで三つだ」と言うなり懐から銃を取り出してあっという間に馬を射殺してしまった。
妻は仰天。「なんてことするの!馬はビックリしただけじゃないの!可哀想に。あまりに酷い仕打ちだわ。あなたは人間じゃない、ヒトデナシよ!鬼!」
夫はスタスタと妻に近づいて顔をのぞき込んで言った。
「一つ」



2026/8/5


2026年8月3日月曜日

憎まれっ子世にはばかる


憎まれっ子の心の底には膝を抱えて泣いている小さな男の子がいる
読み人知らず



犬棒カルタの「に」は憎まれっ子世にはばかるです。
憎まれっ子は世の中にたくさんいます。こういったひとがなぜ社会的に成功し「世にはばか」ってしまうのか?
またこういったタイプの人は我々には思いも寄らないタイミングで犯罪を犯したり自死してしまったりすることがありますがそれはなぜなのか。

人格障害には「自己愛性人格障害」というジャンルがあります。
それは主に以下の三つの傾向があるとされます。

  • 自分は特別という妄想
  • 過剰な承認欲求
  • 共感性の欠如

憎まれっ子は自分は特別だ、もっと褒められるべきだと思っているので鼻持ちならないし、共感性が欠如しているので嫌われる。
誰しも多少はこういう傾向を持っていると思うのですが、精神に破綻を来す可能性があるかどうかは妄想がどの程度関わっているかどうか。

それで思い出すのが精神科医の春日武彦氏が内田樹氏(※)との対談で「人間の精神のアキレス腱(統合失調症などの前駆症状や、人間を不幸にする要素)」として
「こだわり」「プライド」「被害妄想(被害者意識)」
をあげておられ、確かこの順番でより事態は深刻だと述べておられたように思う。

人としての成長過程で無条件の愛に恵まれていなかったり、不当な扱いを受けて過剰なコンプレックスを持ってしまったり、あるいは逆に優れた人間になるべく親から過剰な刷り込みが行われたりすると、実際の自分よりもはるかに大きな「妄想としての自我」(オレ様は偉いんだ)を持ってしまうことがある。

こういったひとが愛や称賛に飢えているのは、「妄想としての巨大な」自我に見合った愛情や称賛を受けていないからだと感じているからであり、そこにこだわり、プライド、被害妄想が生まれてくる。

無条件の愛をもらえなかった個体は、愛を与えなかった側に問題があるのではなく、自分に愛される資格がなかったからではないかという自虐感を持つ。
その自虐感に堪えられないから、僕の巨大で偉大な自我、愛と称賛に値するこの自我(自分は特別という妄想)を、周りの人はぼんくらだから見えないのだ(過剰な承認欲求)。あいつらはぼんくらなのだから一顧だに値しない(共感性の欠如)と考える。

このとき自分の自我を妄想上の巨大な自我に見合う大きさにするために懸命に努力すれば、世間から称賛される偉大な人物になって「世にはばかる」だろう。
しかしもし努力を怠けたり努力が報われなかったりするとそれによる敗北感を打ち消すためや自分を慰めるための妄想はさらに巨大になり、それがあまりに巨大になると実際の自我とのギャップから来る矛盾や世間の評価との軋轢に耐えきれなくなり精神に破綻をきたしてしまったり、犯罪を犯してでも巨大な自我に追いつこうとしたり、不可能と感じて自死してしまったりする。

この言葉が犬棒カルタにまで取り上げられているということは、こういった種類の人格障害は昔から多かったし、実際その病理はポピュラーなものとして世間に受け入れられていた、というより知られていて注意喚起されていたということなのかもしれません。
いや僕の勝手な妄想ですが。

※:僕自身彼の著作や京大での講義などから深い共感と示唆を与えていただいたし彼のユーモアも好きなのだが10年ほど前から彼の言動がどんどん左傾化していくにつれ呆れるとともにとても残念に思っている。彼ほどの知性がなぜあんな猿馬見れんだろな世界に入っていったのかは謎でしかない。返す返すも残念だ。

2026/8/3


2026年8月2日日曜日

花より団子



犬棒カルタの3番目の「は」は花より団子。
花より団子といっても何も思いつくことがない。
犬棒カルタを順番に書いていくのはなかなか難しいと早々と実感。
困ったが、そこで小林秀雄が講演会で正宗白鳥のことをしゃべっていたのを思い出した。
どれも愉快で楽しいがそのなかにひとつ、正宗白鳥が小学校に上がって間もない頃の思い出を紹介している。

ある時先生が生徒達に宿題を出した。桜が満開だったのでそのことについて作文を書くように言った。
正宗の家では毎年庭の八重桜が咲くと祖母の作ったごちそうの弁当を食べながら花見をするのが習わしであったが、その時はまだ八重桜は咲いておらず、したがって花見もまだであった。そこで困った正宗少年は白紙のまま作文を提出した。
先生がこれでは零点だ、何か書けと言う。しかし正宗少年が何も思いつかないと言うので困った先生は意外なことを言う。
以下正宗白鳥の「花より団子」(青空文庫)からの引用(リンク)。

「どうしたのぢや。何も書いてないと零点だぜ」 
「しやうがありません」 
「何か書きなさい。今は桜の盛りぢや。花は桜木、人は武士と云ふことを君も聞いとるだらう」 
「知りません」 
「咲いた桜になぜ駒つなぐ、駒がいさめば花が散ると云ふ唄聞いたことないか」 
「聞きません」 
「それでは花より団子。君も団子の方が好きなんだらう。花見に行つて団子をたべたと書いたらいいぢやないか」
先生にさう云はれると、私はその通りに書かうかと思つた。
桜の花を楽むよりも団子でも食べたいと思ひながら筆を執つてゐると、桜の花が団子のやうに見えだした。
団子が串に差されて立つてゐるのが満開の桜の形か。私はさう思ひ出すと、それが面白くなつた。 「花見の記」が団子の記になつた。
団子が咲いた咲いたと書いた。
先生はそれを取上げていい点をつけて呉れた。この先生も剽軽であつたのか。
でも、私にも団子は団子、桜は桜。団子は口にうまいもの、桜は目に美しいもの。
或日、隣の家から貰つた団子を腹一杯食べた私は、離れの庭にぽつりぽつりと咲きだした花を、自分一人で見上げてゐたが、膨らんだ団子腹を消化させる気になつたのか、その桜の木にするすると登つて、咲く花を一握り掴んで口の中へ入れた。
うまいまづいの感じではなく、綺麗なものを、口から喉を通して腹に入れたやうな感じがした。さうして、二握り三握り、むしゃむしゃと喰つたのであつた。
それ以上は喰へさうでなかつたが、さうしたあとで木から飛下りて、花から花を見上げてゐると、「こんな綺麗な花の味を誰も知るまい」と、それを面白いことのやうに考へだした。いくら美しくつても、これは人間のたべ物ぢやないと思はれたので、誰にも云はなかつた。
だが、あくる日、午餐のあとで、その離れの庭に出ると、昨日にもまして花の色づいたのに心惹かれて、またその木に登つて、二握り三握りつかみ取つて、口から喉へ通した。
味がどうであらうと、綺麗なものを腹に入れたといふ気持は快くなつた。
家の者に気づかれないうちにどれほどのものが喰はれるかと、人知れぬ異様なたのしみになつた。

小林秀雄はこの文章を読んだときの印象をその講演で述べているが、自分が感じたことを正直に書くと言うこと、逆に言えば感じ得なかったことについては一言半句も決して述べないというのが正宗白鳥の文芸活動の本質であり、幼くしてすでにその萌芽が彼のこの体験に現れているじゃないかと語っている。

2026/8/2