犬棒カルタの記念すべき第一回はご存じ「犬も歩けば棒に当たる」です。
犬棒カルタにはよくわからないものもいくつかありますがこれはそのなかでもとくにわからない。棒に当たるってなんだろう?
今どき道を歩いていて棒に出くわすことはほとんどありません。
昔は多かったのかな?建材だろうか?何かの道具?
確かに僕の小さい頃は空き地なんかによく棒が落ちていた。僕はその棒をバット代わりにして王貞治気分で石を打ったりしたものだ。
それが何の棒であるにせよ、犬に当たるためには棒は立っていないといけない。なぜ立っているのかわからないが、犬にしても歩いていてむざむざ立っている棒に当たるほど馬鹿じゃないだろう。
とするとこの棒の向こう側にはヒトがいて、エサを探してうろつく犬を叩こうと待ち構えているわけだ。
つまりこのことわざは意味もなくうろついていると碌な目に遭わないぞと。目的を持って、しっかり前を向いて歩きなさいよと。
うーん、それではなんだかつまらない。よくわからないがそれでは意味が浅い気がする。
「犬も歩けば」というのは犬でさえという意味だろう。
もし「棒」が不運のメタファーであるなら、主語は良い人、つまり不運に出くわすのに似つかわしくないものでなければならない。
例えば「仏陀も歩けば棒に当たる」とか「空海も歩けば棒に当たる」とすれば、あの素晴らしい仏様や空海様でさえ用もなく出歩けば不運に出くわすのだ、ましてやバチ当たりな我々においてをやと。くわばらくわばら、とこうなる。
ひるがえって「棒」が幸運のメタファーであったら主語はつまらないもののほうが意味が引き立つだろう。とるに足らない犬でさえ当てもなく歩いているうちに何かいいことに出くわすことがあるものだ、ましてやわれわれ人間においてをや。ありがたやありがたやと、確かにこの方がすっきりする。
ただし、棒ってはたして幸運のメタファーだろうか?
映画「2001年宇宙の旅」で類人猿が手にした骨を武器(棒)として使用したのち、空へ放り投げた骨が宇宙船に変わるシーンを思い出す。
僕が空き地で見つけた棒をバットに使ったように、棒は古代の人達にとって手では届かない高い木の実を落としたり、穴を掘ったり、重いものをてこにして動かしたり、車軸にしたり、武器にしたりという、いわば多様な目的に使うことの出来る道具として姿を現したのではないか。人類にとって、初めての「手の延長」。それは大きな喜びであったに違いない。
日本では棒を幸運のメタファーとする歴史はあまり見当たらないが、英語圏では「幸運が逃げないように」と祈りを込めて、近くにある木の棒(stick)をトントンと叩く習慣があったり、クリスマス・イブに丸太を暖炉で燃やしてその灰を翌年まで取っておくことで家を落雷や火災から守り翌年の一家に幸運をもたらすという風習が残っているようだ(ケーキの「ブッシュ・ド・ノエル(クリスマスの丸太)」はこれが形を変えたものらしい)。
幸運かどうかは別として少なくとも棒を目にした僕たちが、あ、これ何かに使えるかもというヒント的なものとして捉えているとすれば棒に当たるのもあながち悪くない気がする。
というわけで犬棒カルタの第一回は犬も歩けば棒に当たる。
降り続く雨はない。明けない夜はない。
クレイジーキャッツじゃないけれど、そのうちなんとかなるだろう(笑)という楽天的で楽しい気分でお開きです。
2026/7/31
というわけで犬棒カルタの第一回は犬も歩けば棒に当たる。
降り続く雨はない。明けない夜はない。
クレイジーキャッツじゃないけれど、そのうちなんとかなるだろう(笑)という楽天的で楽しい気分でお開きです。
2026/7/31
