2025年10月1日水曜日

10センチ先の未来

 いい天気の朝。昨日はまだ風邪が完全に治っていなかったのでカヤックは見送ったが今朝身体はなんともないし、今日は出合なぎさでカヤックの練習をしようと思い立った。今カーポートの棚にはカヤックを前後反対(舳先が奥)に置いている。そのままルーフレールに載せようとしたら船尾方向にずれ落ちそうになった。あわてて船を棚に戻して、それから車を少し前に移動し、もう一度船をルーフに載せた。いつもならこういった行程はもっと手を抜いてというか、つまらない方法を考えてその結果痛い目に遭うのだが、今日はなぜか丁寧。荷締めベルトも放り投げるのではなくドアを開けてドアステップに乗ってベルトの金具を船の向こうへ載せた。ベルトも捻れないように。多分この時かな、「10センチ先の未来」という言葉が頭に浮かんだのは。この言葉を思い浮かべながら作業すると自分の行為がとても丁寧になるのに気が付いた。

さて、僕は最近運転する時10m先だけ見ながら運転している。以前ならずっと遠方を見て、いろんな状況を頭に入れて近未来の運転スケジュールを思い描いていた。先行車や先々行車や、後続車や後々続車や、行く手の信号や、もちろん歩行者などを見ながら浮かぶ物語のなかを僕は走っている。卑近な例で言えば行く手の歩行者信号が赤になったらまもなく車道の信号も黄色になるのでスピードを上げたりする。つまり僕の運転はこういった信号や先行車たちとの関係で生まれる物語に支配されているわけだ。
さて、ここで問題が発生する。
物語に支配された運転は現実を無視する傾向にあるので、信号が赤になる前に渡ってしまおうという物語は他者の介入を拒否する。それによってしばしば悲惨な事故が発生するのだ。
長年車を運転していると、他車の挙動でその車が次にどういう行動を取るか予測できるようになる。もうすぐこっちの車線に入ってくるぞとか、もうすぐ無理な割り込みを仕掛けてくるぞとか。当然その予測は自分に様々な感情を誘発し、その感情に基づく物語は早めに車間を広げるとかイケズして車間を縮めるような行動を取らせる。それが良い予測行動なら良いのだが、こちらに気持ちの余裕がなかったりいらついていたりすると悪い予測行動を取ってしまう。
最近僕は本当にびくびくしながら運転している。トシのせいで反射神経が落ちたのもあるが、とにかく世界は危険に満ちている気がして怖くてしようがないのだ。それで僕は、まずは、もう物語で運転するのはやめようと決心した。とにかく目の前の現実だけを見て運転しよう。それで実行しているのが「10m先だけを見て運転する」という方法だ。
いやそれはむしろ危ないだろうと考えるのは当然だ。しかし10m先を見ている時、もっと遠くの視界の情報も実は頭に入っている。ただそれらは物語に参加しない。僕は10m先の物語だけを見ている。10m先以外の視覚情報をシャットアウトしているのではなく物語に参加させることをやめたのだ。車は日常より速いので10m先の未来は物語になる暇もなく過ぎ去っていく。10mより先の未来は過ぎ去るのに時間がかかるから油断すると物語を作り出すが、10mより先の視覚情報を意図的に物語作成から排除しているので、実質「無物語」の世界を走ることになる。
で、10センチ先の未来の話に戻る。これもいわば10センチ先より未来のことを物語に参加させないという方法だ。今目の前にあることだけに取り組む。過去や未来にとらわれず今だけを生きる。今だけを生きるというのは難しいが、10センチ先の未来はまたたくまに過ぎ去っていくので実質「無物語」の世界を生きることになるというわけだ。

「一寸先は闇」ということわざがある。一寸は約3センチ。3センチ先も見えないほどの深い闇という意味かと思っていたが、どうもこの言葉は距離ではなく時間の話らしい。つまり一瞬あとには何が起きるかわかりませんよと。一瞬ではなく一寸というのが面白い。3センチ先の未来は、10センチ先の未来よりもっと現実に近いだろう。

2025年9月29日月曜日

風邪をひきかけたら

 

令和7年9月28日(日)
朝起きたら寒気を感じたのでエアコンの暖房を入れてハイネックシャツを着て麻黄附子細辛湯を飲んだ。風邪か?さらに冬服を着込んだがどうも怪しい。まだ熱はないが慌てて熱めのお風呂を沸かして4~5分入浴し、例によって長いタワシ(こういうのリンク)で背中を重点的に身体全体をこすりまくって、赤剥けヒリヒリした状態で交感神経を活性化させるために熱い浴槽内で正拳突き1~2分。風呂から上がってよく身体を乾かしたあと厚着したまま寝床に入ったらじんわり発汗。昼には回復して普通に昼食。夜も早めに寝た。

令和7年9月29日(月)
すっかり元の体調に戻った。

2025/9/29


2025年9月14日日曜日

Forever flexible(いつまでも柔らかく)



Bob Dylanの曲にForever Youngという曲(リンク)がある。
ずっと若くいられるわけではないが最近僕が心がけているのは
柔らかくあること。
朝食を摂って緑内障の目薬をして、さて3分間目を閉じているあいだ暇なので体操をする。
その体操は自己流で、前屈したり後屈したり、側弯したり、体幹をねじったり、首も前屈後屈、側弯、回旋。
その多くの動きは脊柱の可動域を広げるためのもので、考えてみるとラジオ体操第一には上記の動きの多くが含まれている。

追記: 最初softと表現したがsoftは押さえると凹む方の柔らかさでした(笑)。




2025年8月29日金曜日

予期しないホストID

 


今朝PCを立ち上げたら「C:\Program・・・予期しないホストIDが検出されたため、操作は完了しませんでした」というアラートが出た。
Copilotに尋ねたらイベントビューアーをチェックするように言われたのでやってみたらソースVolsnapで「ユーザーが設定した制限値のためにシャドウ コピーの記憶域を拡張できなかったためにボリューム C: のシャドウ コピーが中止しました」とのこと。
このことを再度Copilotに尋ねたら「これは、Windowsが「シャドウ コピー(VSS)」というバックアップ用の一時領域を拡張しようとしたけれど、設定された上限に達していたために失敗したという意味です」と。
それで具体的にCドライブの一時領域を10GBに拡張する方法を教わったのでそのとおりやって再起動したら問題は消失した。

ちなみにGrokでも同じ質問をしたらVisual Studioというインストールしていないアプリが古いせいかもしれないという頓珍漢な返答があり、Visual Studioはインストールしていないと答えたが返事が要領を得ないので更にさきほどイベントビューアーで表示された内容を入力したらGrokは2時間以内に2つ以上の質問を受けつけません。もっと聞きたければ有料版をどうぞと。
うーん、Grokは結構愛用してきたけど最近返答が1分以上かかったり、返事が愛想なかったりするので今後はCopilotやGeminiに尋ねることにしよう。






2025年5月10日土曜日

Men are expendable


荒野に生きる (Man in the Wilderness)という映画を観たので気になったことをGrokに尋ねてみた。


映画の中で隊長が「男は消耗品だ」というセリフを言うのですが英語ではなんと言っているのでしょう?

返事
映画「Man in the Wilderness」(1971年)で、隊長のヘンリーが「男は消耗品だ」に相当するセリフを言う場面では、英語で次のように言っています:
"Men are expendable."
このセリフは、物語の文脈で隊長が部下たちの命を軽視する冷酷な姿勢を表しています。


村上龍がすべての男は消耗品だというようなタイトルの本を書いていたと思いますがなにか関係があるのでしょうか?

返事
村上龍のエッセイ集『すべての男は消耗品である』(1987年~2018年、KKベストセラーズ他)は、確かにタイトルやテーマにおいて「男は消耗品だ」という考え方と共鳴する部分があります。この本は、村上龍が約34年間にわたり執筆したエッセイをまとめたシリーズで、恋愛、性、社会、経済など幅広いテーマを扱い、特に男性の存在や役割について鋭く、時に過激に論じています。映画「Man in the Wilderness」(邦題:荒野に生きる)での隊長のセリフ「Men are expendable.」(男は消耗品だ)と、村上龍のエッセイのタイトルが似ていることから、関連性を考えるのは自然なことです。
直接的な関係
直接的な証拠として、村上龍が『すべての男は消耗品である』のタイトルをこの映画のセリフから着想したと明言した資料は見つかりません。ただし、村上龍は若い頃にヒッピー文化やアメリカのカウンターカルチャーに影響を受けており、1970年代の映画や文学に触れる機会も多かったと考えられます。「Man in the Wilderness」は1971年の作品で、村上龍が20代の頃に公開されたため、彼がこの映画を観てセリフに印象を受けた可能性はゼロではありません。エッセイの初巻が1987年に出版されたことを考えると、映画のセリフが間接的に影響を与えた可能性は想像できますが、確証はありません。

テーマ的な関連性
村上龍の『すべての男は消耗品である』では、男性が社会や女性との関係で「使い捨て」の存在として扱われること、または自らその役割に甘んじる様子を批判的かつ挑発的に描いています。例えば、レビューでは「男は遺伝子の運搬人として消耗品に過ぎない」といった生物学的な視点や、現代社会での男性のアイデンティティの喪失が指摘されています。これは、映画の「Men are expendable.」というセリフが、過酷な環境下で個々の命が軽視される状況を表している点と、概念的に通じるものがあります。どちらも「男性が道具や手段として消費される」ことを示唆しており、村上龍がこのようなテーマを自らの視点で拡張し、エッセイのタイトルに反映した可能性は考えられます。

文化的背景
村上龍は、1980年代から90年代にかけて、日本のバブル経済や消費文化の中で、男性の価値観や生き方が変容していく様子を観察していました。『すべての男は消耗品である』では、経済的成功や恋愛における男性の「使い捨て」感を、時にシニカルに、時にエネルギッシュに論じています。一方、映画のセリフは、19世紀のアメリカ開拓時代を背景に、生存のための冷徹な現実を反映したものですが、両者ともに「男性の存在の脆さ」を浮き彫りにしている点で共通します。このテーマは、時代や文化を超えて普遍的な問いとして存在し、村上龍がそのエッセンスを日本の現代社会に適用したと解釈することも可能です。

村上龍の意図と映画の影響
村上龍のエッセイは、過激なタイトルと挑発的な内容で読者の反応を呼び起こすことを意図しています。レビューによると、「タイトルだけでも衝撃を受ける」「男を消耗品扱いするのは大胆で斬新」と評されており、このセンセーショナルな表現は彼の作家としてのスタイルを象徴しています。映画の「Men are expendable.」も、物語の中で衝撃的な価値観として提示されるセリフであり、村上龍が同様のインパクトを狙ってタイトルを付けた可能性は考えられます。ただし、彼のエッセイは映画の荒々しいサバイバル劇とは異なり、都市生活や現代社会の観点から男性論を展開しているため、仮に影響があったとしても、テーマを大きく再解釈した結果と言えるでしょう。

結論
村上龍の『すべての男は消耗品である』と映画「Man in the Wilderness」のセリフ「Men are expendable.」には、直接的な関連を示す証拠はありませんが、テーマ的な共鳴は存在します。両者ともに、男性が「消耗品」として扱われる現実を異なる文脈で表現しており、村上龍が映画のセリフにインスパイアされた可能性は否定できません。しかし、村上龍のエッセイは、日本の現代社会や彼自身の哲学を反映した独自の作品であり、映画の影響があったとしても、それを大きく超えた視点で書かれています。もしこの関連性についてさらに知りたい場合、村上龍のインタビューや自伝的エッセイ(例:『村上龍映画小説集』)を参照すると、彼の創作の背景がより明らかになるかもしれません。



2025年5月1日木曜日

性分

 




今朝ゴミ出しに行く前に家の前の落花をホウキではばいて考えた。自分はこういった日々の営みをするときに、なんでもない営みでもやるとなったら全人格を懸けてやる、徹底的にやるという性格だ。そうでなければ何もしない。それはなぜか。自分のやりたいことをするのは楽しいがそうでないことはしたくない。したくないことを楽しくやるにはどうするか?その行為に全人格をかけてやれば行為に意味が発生し、終わったときの達成感を目標にすることが出来るからだろう。やっぱり僕は行為に意味を求めてしまうのだ。それってなかなか窮屈な生き方だな。でも性分だから仕方がないか。





2025年4月25日金曜日

百年の孤独


 ガルシア・マルケスの「百年の孤独」を読み終えた。この物語のテーマである「孤独」について考えたことをGrokに尋ねてみた。

わたしの問い
女性がつながりを前提とする存在であるのに対し男性はつながりよりも自己のアイデンティティを重視する存在であるように思います。この物語は男性性の抱える宿命的な孤独をもテーマにしているのではないでしょうか?

Grokの返事
あなたの指摘は非常に鋭く、『百年の孤独』における「孤独」の主題を、男性性と女性性の対比を通じて解釈する視点は、作品の深層を読み解く上で興味深いアプローチです。ガブリエル・ガルシア・マルケスのこの小説において、確かに男性キャラクターの抱える宿命的な孤独が、自己のアイデンティティや個の追求と結びついているように見える一方、女性キャラクターはしばしばつながりや家族の継続性を体現する存在として描かれています。この観点から、以下に分析を展開します。

男性性の宿命的な孤独
ブエンディア家の男性キャラクターは、自己のアイデンティティ、野心、情熱を追い求める過程で、しばしば孤立し、宿命的な孤独に陥ります。この孤独は、男性性が自己実現や独立性を重視する傾向と密接に関連していると言えます。以下に具体例を挙げます:

    ホセ・アルカディオ・ブエンディア:物語の始祖である彼は、錬金術や科学的探求、冒険心に駆られ、マコンドを創設します。しかし、彼の夢や理想は家族や共同体の現実から乖離し、狂気と孤立に追い込まれます。彼の情熱は自己のアイデンティティを確立するためのものですが、それが結果的に彼を家族から切り離し、孤独な運命を決定づけます。
    アウレリアーノ・セグンド:彼は享楽的で自己中心的な生活を追求し、妻フェルナンダとの関係は冷え切っています。彼の快楽主義は、自己の欲望を優先する男性性の表れとも言えますが、それが家族とのつながりを希薄にし、孤独を深めます。
    ホセ・アルカディオやアウレリアーノたち:ブエンディア家の男性たちは、世代を超えて繰り返される名前と運命に縛られ、戦争、情事、冒険、芸術など、個々のアイデンティティを確立しようとする試みに没頭します。しかし、これらの試みはしばしば破滅的で、家族や共同体とのつながりを断ち切る結果となります。たとえば、アウレリアーノ・ブエンディア大佐は革命に身を投じますが、その闘争は個人的な理想に基づくものであり、最終的には虚無感と孤独に苛まれます。
    物語の終焉:最後のアウレリアーノがメルキアデスの予言を解読し、一族の運命を知る場面は、男性の知識や自己探求の極点を示しますが、それは同時に一族の終焉と完全な孤立を意味します。この結末は、男性性が自己完結的なアイデンティティを追求する過程で、つながりを失い、宿命的な孤独に陥る姿を象徴していると解釈できます。

女性性とつながりの役割
一方、ブエンディア家の女性キャラクターは、家族や共同体の継続性、つながりを維持する役割を担うことが多く、男性の孤独とは対照的な存在として描かれます:

    ウルスラ・イグアラン:ブエンディア家の精神的支柱であるウルスラは、家族の存続と秩序を守るために奮闘します。彼女の存在は、つながりを前提とした女性性の象徴であり、男性たちの無謀な行動や孤立を繋ぎ止める力として機能します。彼女の死後、家族は急速に崩壊し、女性がつながりの中心であったことが強調されます。
    レメディオス・ラ・ベジョータ(美しきレメディオス):彼女は純粋で超越的な存在として描かれ、男性たちの欲望やアイデンティティ追求の対象となりますが、彼女自身はそれらの枠組みを超え、つながりや現実の重荷から解放された存在です。彼女の昇天は、女性性が男性の孤独とは異なる次元で機能することを示唆します。
    フェルナンダ・デル・カルピオ:フェルナンダは伝統や規範を重視し、家族の枠組みを守ろうとしますが、彼女の厳格さは男性キャラクターとの断絶を生み、つながりを完全に実現できない悲劇性を帯びています。それでも、彼女の努力は家族の存続に向けられています。
    アマランタ:アマランタは情熱的で自己主張の強い女性ですが、彼女の孤独は愛を拒絶することによるもので、男性の自己追求型の孤独とは異なり、つながりを求めつつもそれに失敗する形の孤独です。彼女の物語は、女性性がつながりを前提としながらも、男性性との衝突によって孤立する可能性を示します。

男性性の孤独とテーマの関連
『百年の孤独』における男性性の宿命的な孤独は、自己のアイデンティティや個の追求が、家族や共同体とのつながりを犠牲にする過程として描かれています。これは、男性性が自己完結的な目標や理想を優先する傾向が、結果的に孤立や破滅を招くという、マルケスの批評的な視点とも言えます。ブエンディア家の男性たちは、自己の名誉、情熱、知識、権力を追い求めるが、それらが最終的に虚無や滅亡につながる。この点で、物語は男性性の抱える「宿命的な孤独」を、ラテンアメリカの歴史や文化における個人主義、植民地主義、革命の失敗といったテーマと重ね合わせているとも解釈できます。
一方、女性キャラクターが家族やつながりを重視する存在として描かれることで、男性の孤独がより際立ちます。女性たちは、男性の破滅的な行動を補完し、家族の存続を支える役割を果たしますが、彼女たち自身も完全なつながりを実現できない場合が多く、物語全体としては、人間存在そのものの孤独が強調されます。

結論
『百年の孤独』は、確かに男性性の抱える宿命的な孤独を重要なテーマの一つとして扱っていると言えます。男性キャラクターの自己アイデンティティの追求は、つながりを断ち切り、孤立と破滅を招く過程として描かれ、これがブエンディア家の滅亡に至る主要な要因となります。一方、女性キャラクターがつながりや家族の継続性を体現する存在として描かれることで、男性性の孤独がより鮮明に浮かび上がります。ただし、マルケスはこの対比を通じて、単に男性性を批判するのではなく、男性性と女性性が互いに補完し合いながらも、運命や歴史の前で共に孤独に直面する人間の普遍的な姿を描いているとも言えます。このテーマは、ラテンアメリカの文化的・歴史的文脈を超え、現代社会における個人と共同体の緊張関係にも通じる深い洞察を提供しています。