岡本綺堂の中国怪奇小説集(光文社)には中国の古い逸話が多数収載されていてそのなかの一つにこんな話がある。タイトルは「離魂病」。
宋の時代にある女が帰宅したら夫が布団をかぶって寝ていた。そこへ召使がやってきて「旦那様が鏡を持ってくるようにおっしゃっています」という。女は、夫ならここにいるではないかと言って笑うと召使は驚いて走っていき主人にそれを告げた。夫は不思議に思い見に来るとたしかにそこに自分がいる。夫は寝ている自分に手を差し伸べ静かに撫でているとやがてその姿は消えてしまった。それからまもなくその夫は一種の病にかかって物の理屈も判らないようなぼんやりした人間になったという。
僕がこの手の本を好んで読むようになったのは南伸坊氏の影響で、上述の話も彼の「李白の月」(ちくま文庫)に「鏡の人」として収録されています。
伸坊氏は「仙人の壺」(新潮文庫)のまえがきで
中国の怪談には、奇妙なものが多い。読んだあとにポンとそこらに放っぽらかしにされるような気分です。
私は、この気分がことのほか好きで、そんなものばかり捜して読んできたようです。
と述べておられます。
上述のこの話も
〈起〉女が帰ってきたら夫が寝ている
〈承〉召使が夫の用事を女に告げるが夫はここにいると言って笑う
〈転〉やってきた夫が自分の姿を見て驚きそれを撫でていたら消えた
〈結〉夫が認知症になった
というふうに一応お話の体裁を保っていますが〈転〉と〈結〉があっけなくて拍子抜けする感は否めません。
この手の中国の怪奇な話では不思議な経験をした主人公が最後に大金持ちになるとか罰を受けて惨めな境遇に陥るとか生き返るとか悲惨な死に方をするといったパターンが多いのですが、この話では「物の理屈も判らないようなぼんやりした人間になった」というのはちょっと珍しい。
僕がひっかかったのはそのこと。これは現代で言えば認知症を指しているような気がする。つまりこの話はこの結末によってほかの荒唐無稽な話よりもリアルなのだ。結末で急にリアル。
さて、ではなぜ(少なくともこの話の中では)主人公は認知症になったのだろう。何かを失って認知症になるとしたらそれは記憶。すると消えていった自分というのは自分の中の記憶だろうか。静かに撫でているあいだ、夫は過去の記憶を懐かしく慈しんでいたのかもしれない。自分=記憶が急に消えるのではなく徐々に消えていったというのも失われていく記憶の消え方によく似ているし、夫が鏡を持ってくるように言ったのも「自分というもの」の記憶がぼやけてきたので確認したかったからではないかという気もする。
いやまぁそんなつまらない深堀りなんかせずに、こういった怪奇譚は純粋に奇妙な感じを味わうべきなんでしょうね。