いい天気の朝。昨日はまだ風邪が完全に治っていなかったのでカヤックは見送ったが今朝身体はなんともないし、今日は出合なぎさでカヤックの練習をしようと思い立った。今カーポートの棚にはカヤックを前後反対(舳先が奥)に置いている。そのままルーフレールに載せようとしたら船尾方向にずれ落ちそうになった。あわてて船を棚に戻して、それから車を少し前に移動し、もう一度船をルーフに載せた。いつもならこういった行程はもっと手を抜いてというか、つまらない方法を考えてその結果痛い目に遭うのだが、今日はなぜか丁寧。荷締めベルトも放り投げるのではなくドアを開けてドアステップに乗ってベルトの金具を船の向こうへ載せた。ベルトも捻れないように。多分この時かな、「10センチ先の未来」という言葉が頭に浮かんだのは。この言葉を思い浮かべながら作業すると自分の行為がとても丁寧になるのに気が付いた。
さて、僕は最近運転する時10m先だけ見ながら運転している。以前ならずっと遠方を見て、いろんな状況を頭に入れて近未来の運転スケジュールを思い描いていた。先行車や先々行車や、後続車や後々続車や、行く手の信号や、もちろん歩行者などを見ながら浮かぶ物語のなかを僕は走っている。卑近な例で言えば行く手の歩行者信号が赤になったらまもなく車道の信号も黄色になるのでスピードを上げたりする。つまり僕の運転はこういった信号や先行車たちとの関係で生まれる物語に支配されているわけだ。
さて、ここで問題が発生する。
物語に支配された運転は現実を無視する傾向にあるので、信号が赤になる前に渡ってしまおうという物語は他者の介入を拒否する。それによってしばしば悲惨な事故が発生するのだ。
長年車を運転していると、他車の挙動でその車が次にどういう行動を取るか予測できるようになる。もうすぐこっちの車線に入ってくるぞとか、もうすぐ無理な割り込みを仕掛けてくるぞとか。当然その予測は自分に様々な感情を誘発し、その感情に基づく物語は早めに車間を広げるとかイケズして車間を縮めるような行動を取らせる。それが良い予測行動なら良いのだが、こちらに気持ちの余裕がなかったりいらついていたりすると悪い予測行動を取ってしまう。
最近僕は本当にびくびくしながら運転している。トシのせいで反射神経が落ちたのもあるが、とにかく世界は危険に満ちている気がして怖くてしようがないのだ。それで僕は、まずは、もう物語で運転するのはやめようと決心した。とにかく目の前の現実だけを見て運転しよう。それで実行しているのが「10m先だけを見て運転する」という方法だ。
いやそれはむしろ危ないだろうと考えるのは当然だ。しかし10m先を見ている時、もっと遠くの視界の情報も実は頭に入っている。ただそれらは物語に参加しない。僕は10m先の物語だけを見ている。10m先以外の視覚情報をシャットアウトしているのではなく物語に参加させることをやめたのだ。車は日常より速いので10m先の未来は物語になる暇もなく過ぎ去っていく。10mより先の未来は過ぎ去るのに時間がかかるから油断すると物語を作り出すが、10mより先の視覚情報を意図的に物語作成から排除しているので、実質「無物語」の世界を走ることになる。
で、10センチ先の未来の話に戻る。これもいわば10センチ先より未来のことを物語に参加させないという方法だ。今目の前にあることだけに取り組む。過去や未来にとらわれず今だけを生きる。今だけを生きるというのは難しいが、10センチ先の未来はまたたくまに過ぎ去っていくので実質「無物語」の世界を生きることになるというわけだ。
「一寸先は闇」ということわざがある。一寸は約3センチ。3センチ先も見えないほどの深い闇という意味かと思っていたが、どうもこの言葉は距離ではなく時間の話らしい。つまり一瞬あとには何が起きるかわかりませんよと。一瞬ではなく一寸というのが面白い。3センチ先の未来は、10センチ先の未来よりもっと現実に近いだろう。
2025年10月1日水曜日
10センチ先の未来
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