2023年10月10日火曜日

空から降ってくる言葉


 鈴木大拙氏がアメリカ東部の大学で講演したときのこと。
冒頭大拙氏は旧約聖書の話を始められた。アダムとイブが蛇にそそのかされてリンゴを食べたために神の怒りを買って楽園を追放され、もはや永遠に楽園に戻れなくなってしまった。
大拙氏がそこまで話したときある学生がすかさず挙手して彼に尋ねた。それは切実な叫びにも似た質問だった。「先生!では私達はいったいどうすればいいんでしょう!」
それに対し間髪をいれず大拙氏が答えた言葉に会場はどよめいた。
彼はこう答えたのだ。
「Have another bite.」(もう一口囓りなさい)

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なんという言葉だろう。
禅の本質を理解しているつもりでも、逆立ちしたって出てこない言葉だ。そして、しかもなおこれほど禅の本質を貫いている言葉もないだろう。ロジックを超えた言葉と言ってもいい。そう。ロジックの世界からは永遠に生まれない言葉なのだ、これは。そしてこの一見チェスタトンにも似た逆説からは青天井の笑いが、健やかな諧謔が轟いている。

さてではこの公案は何を意味しているのか。
学生の質問にロジックで答えるなら
「Spit out the apple.」(リンゴを吐き出せ)となる。
リンゴを囓って楽園を追放されたのだから、食べたリンゴを吐き出せばいいのだ。
だがリンゴはすでに血肉化してもはや吐き出すことは出来まい。
だからロジックの世界では我々には絶望しかなくて、「先生!では私達はいったいどうすればいいんでしょう!」という切実な問いは文字通り切実な悲しみに終わる。

私なりの解釈を述べさせてもらえばリンゴとは知恵=言葉の暗喩である。それまで神の司る世界を生きていたヒトは言葉を手に入れたことで各人が自分を主人公とする物語世界を生き始めた。ヒトは自らが作った物語の中で幸せと不幸せを紡ぎ出す。その、自らの物語から抜け出すことが出来ないために絶望が生まれるのだ。この絶望の物語からロジックで抜け出すためにはリンゴを吐き出せばいいが、それは血肉化したリンゴ=言語による物語世界を生きている私たちにとって死に等しい。いや実際には死にはしないのだがそれは絶望よりもさらに困難な不可能事だ。その物語世界は自らを縛る絶望であると同時に自らを存立させている根拠のようなものだからだ。

ではこの問いに対し禅はなんと答えるか?
あなたはリンゴを食べて苦しんでいるが実はリンゴを食べる前のあなたがもうすでに今ここにあるというのが禅の立場だ。そうしてさらに大拙氏の答えはなんともユニークだ。
彼は「もう一度囓れ」と言う。
囓るとどうなるか。知恵の実を囓ればさらに賢くなるだろう。自分を含むこの世界が、実は自分が作ったものだという視点に目覚めよ、と彼は言っているのだ。