2020年12月18日金曜日

十三年後の回答

 このブログを始めたのは2018年の3月だが、もう一つ別に2007年の5月から続けているブログがある。そのブログに最初の頃付けていた副題があった。

それは、"pratique de vivre avec le respect"(丁寧に生きる練習)というもので、脇目も振らず三車線道路の右端を疾走するようなおよそ丁寧とは縁のない人生を送っていた僕が妻の病気をきっかけに地元に転職し、すこし落ち着いて周りを見渡し始めた当時の心境を表したものだ。

その頃始めた写真という趣味も、初めて自分用に買ったリコーのカプリオというコンパクトカメラで身近なものを撮ることがとても興奮する出来事で、ただの葉っぱを撮ったり地面や空を撮ったり、何でもないものがどうしてこうも面白いのか、ふと気が付いたら身の回りが宝の山だったことに驚いて、しかも身近な花や木や草の名前を全く知らずに過ごしてきたことや、いかに自分が回りを見ていなかったかに気付かせてくれたことも、丁寧という概念に近づくきっかけになったのだと思う。

カメラを通して丁寧に見るということに気付いた僕だったが、現実生活ではしかし相変わらず雑駁で、スピード感はあるが中身のない空虚な生活を送っていた。どうすれば丁寧に生きることが出来るのか。例えばそれは当時のこのような記載に見ることが出来る。

時間と空間を三等分すると私は三人しか入れないが、十等分すればそこに十人の私が入る。千等分すれば、そこに私が千人入ることができる。「丁寧」というのは、時間と空間を細分化して、どれだけたくさんの私をそこに入れることが出来るかということと関係しているのかもしれない」(2007/5/17)

「丁寧」とは、AとBの間を限りなく細分化して、その一つ一つの枡に自分を入れていくことでリアルを取り戻す試みである。それを臨済禅僧はこのように表現された。 随処に主と作れば、立処皆真なり」(2007/9/7)

なるほど「丁寧」というものにアプローチするには、時間の細分化が必要であると。そして細分化した時間の各々に自分を入れていく必要があると。
理屈としてはわかる。しかしそれは具体的にはどのような生き方を指すのか?自分が常に細分化された時間の中にいて、その刻々の中で自らのあり方を常に意識せよと?

僕にはできなかった。そしてやがてその副題はブログから消えた。


最近僕はピアノを独習し始めた。
他の習い事もそうだが還暦を過ぎてなにか新しいことを始めようとすると必ず肉体の反撃に会う。その反撃は怪我であったり痛みであったり限りなく遅い進捗であったり。
それでも習い事というのは多少とも達成感や進歩の自覚を動機として進んでいくもので、それなしにひとは行為を続けることは可能かという疑問が湧いた。

その自らの疑問について書いたのが先日のブログで、行為に内在する喜びを自覚すればひとは行為を続けていくことが可能なのではないか、更に進んで、否も応もなくひとが行為そのものになりきってしまうとき、もはやそこには存続という概念は存在しないのではないかと思ったのだ。

ちなみにこういった事を考えているとき、僕の頭に浮かぶのは父親のスポーツ用品店の棚にあった石原慎太郎の「てっぺん野郎」という本(表紙がピカソの鶏)の中の一節、主人公が師匠の指示で禅の老師のもとに見学に出されて、門から入るとお弟子がまな板でひたすらネギを切っているシーンだ。行為そのものになりきるというと、不思議にいつも僕の頭にはこのシーンが浮かぶ。

それはさておき何を言いたいかというと、僕がブログを書き始めたときに頓挫した「丁寧」という宿題の答えは実はここにあるのではないかということだ。
当時僕は丁寧に到達するために時間を限りなく細分化するという、いわば微分的なアプローチを考えていた。しかしアキレスと亀のようにいくら細分化してもゴールにはたどり着けない。
しかし実は丁寧は行為に入ってしまうことで一気に達成される。丁寧にたどり着けないのは、主体が行為の外側にいるからなのだ。