2019年12月7日土曜日

自由は恐ろしい





ひと(特に男性)と仕事との関係は凧と糸の関係に似ている。
糸が切れたらどんなに自由だろうと想像するが、自由を感じるのは仕事から開放されたつかの間だけで、しばらくすると仕事一筋だったひとは文字通りどうしていいかわからなくなってしまう。糸の切れた凧は風に巻かれてくるくる回って、自分が上昇しているのか下降しているのかさえわからない。

糸という不自由がなくなると、ひとは自由になるだろうか。
残念ながらそうはならない。自由というのは、自分で自分の姿勢を制御してはじめて可能なのだ。糸は私の自由を束縛するとともに私の姿勢制御を行っていたのだ。

仕事という糸が切れてしまったら、自由どころか自らの姿勢制御ができなくなってしまう。それで男性は急に慌てて蕎麦打ちを始めたり陶芸に凝りだしたりカメラを持ってうろついたり大型バイクの免許をとって旅に出たりするのだが、果たしてそれが心底楽しいかといえば実は身の置き所のない気持ちを宥めているだけだったりする。

だが問題は男が心底楽しいと思えるものと出会えたかどうかではない。
男に必要なのは凧の姿勢制御のための重りなのだ。
糸が切れた凧は自分に重りをぶら下げなければならない。
重りだからしたがって楽しいかどうかは二の次である。

考えてみると現役の男性は社会やシステムという他者から与えられた重りによって姿勢を制御してもらっていたのだ。だから仕事をやめたら自分で自分におもりを付けて自分で姿勢を制御しなければならない。

気の合わない配偶者というのも実は凧の糸だったりする。糸が切れたら自由だろうなと考えるが、他者とつながることの得意な女性たちはいざしらず男性というのは糸が切れたらそれっきり。ありあまる自由に耐えきれず死を選ぶようなことにもなる。
自由というのは恐ろしいものだ。

自由気ままな生活を送っていた桑野さんが今後大きな束縛を抱え込むことが火を見るより明らかなのに、なぜまどかさんと暮らすことを選んだのか。
昨日の「まだ結婚できない男」の最終回を見ながらあれこれ考える初冬の夜。