2025年5月10日土曜日

Men are expendable


荒野に生きる (Man in the Wilderness)という映画を観たので気になったことをGrokに尋ねてみた。


映画の中で隊長が「男は消耗品だ」というセリフを言うのですが英語ではなんと言っているのでしょう?

返事
映画「Man in the Wilderness」(1971年)で、隊長のヘンリーが「男は消耗品だ」に相当するセリフを言う場面では、英語で次のように言っています:
"Men are expendable."
このセリフは、物語の文脈で隊長が部下たちの命を軽視する冷酷な姿勢を表しています。


村上龍がすべての男は消耗品だというようなタイトルの本を書いていたと思いますがなにか関係があるのでしょうか?

返事
村上龍のエッセイ集『すべての男は消耗品である』(1987年~2018年、KKベストセラーズ他)は、確かにタイトルやテーマにおいて「男は消耗品だ」という考え方と共鳴する部分があります。この本は、村上龍が約34年間にわたり執筆したエッセイをまとめたシリーズで、恋愛、性、社会、経済など幅広いテーマを扱い、特に男性の存在や役割について鋭く、時に過激に論じています。映画「Man in the Wilderness」(邦題:荒野に生きる)での隊長のセリフ「Men are expendable.」(男は消耗品だ)と、村上龍のエッセイのタイトルが似ていることから、関連性を考えるのは自然なことです。
直接的な関係
直接的な証拠として、村上龍が『すべての男は消耗品である』のタイトルをこの映画のセリフから着想したと明言した資料は見つかりません。ただし、村上龍は若い頃にヒッピー文化やアメリカのカウンターカルチャーに影響を受けており、1970年代の映画や文学に触れる機会も多かったと考えられます。「Man in the Wilderness」は1971年の作品で、村上龍が20代の頃に公開されたため、彼がこの映画を観てセリフに印象を受けた可能性はゼロではありません。エッセイの初巻が1987年に出版されたことを考えると、映画のセリフが間接的に影響を与えた可能性は想像できますが、確証はありません。

テーマ的な関連性
村上龍の『すべての男は消耗品である』では、男性が社会や女性との関係で「使い捨て」の存在として扱われること、または自らその役割に甘んじる様子を批判的かつ挑発的に描いています。例えば、レビューでは「男は遺伝子の運搬人として消耗品に過ぎない」といった生物学的な視点や、現代社会での男性のアイデンティティの喪失が指摘されています。これは、映画の「Men are expendable.」というセリフが、過酷な環境下で個々の命が軽視される状況を表している点と、概念的に通じるものがあります。どちらも「男性が道具や手段として消費される」ことを示唆しており、村上龍がこのようなテーマを自らの視点で拡張し、エッセイのタイトルに反映した可能性は考えられます。

文化的背景
村上龍は、1980年代から90年代にかけて、日本のバブル経済や消費文化の中で、男性の価値観や生き方が変容していく様子を観察していました。『すべての男は消耗品である』では、経済的成功や恋愛における男性の「使い捨て」感を、時にシニカルに、時にエネルギッシュに論じています。一方、映画のセリフは、19世紀のアメリカ開拓時代を背景に、生存のための冷徹な現実を反映したものですが、両者ともに「男性の存在の脆さ」を浮き彫りにしている点で共通します。このテーマは、時代や文化を超えて普遍的な問いとして存在し、村上龍がそのエッセンスを日本の現代社会に適用したと解釈することも可能です。

村上龍の意図と映画の影響
村上龍のエッセイは、過激なタイトルと挑発的な内容で読者の反応を呼び起こすことを意図しています。レビューによると、「タイトルだけでも衝撃を受ける」「男を消耗品扱いするのは大胆で斬新」と評されており、このセンセーショナルな表現は彼の作家としてのスタイルを象徴しています。映画の「Men are expendable.」も、物語の中で衝撃的な価値観として提示されるセリフであり、村上龍が同様のインパクトを狙ってタイトルを付けた可能性は考えられます。ただし、彼のエッセイは映画の荒々しいサバイバル劇とは異なり、都市生活や現代社会の観点から男性論を展開しているため、仮に影響があったとしても、テーマを大きく再解釈した結果と言えるでしょう。

結論
村上龍の『すべての男は消耗品である』と映画「Man in the Wilderness」のセリフ「Men are expendable.」には、直接的な関連を示す証拠はありませんが、テーマ的な共鳴は存在します。両者ともに、男性が「消耗品」として扱われる現実を異なる文脈で表現しており、村上龍が映画のセリフにインスパイアされた可能性は否定できません。しかし、村上龍のエッセイは、日本の現代社会や彼自身の哲学を反映した独自の作品であり、映画の影響があったとしても、それを大きく超えた視点で書かれています。もしこの関連性についてさらに知りたい場合、村上龍のインタビューや自伝的エッセイ(例:『村上龍映画小説集』)を参照すると、彼の創作の背景がより明らかになるかもしれません。



2025年5月1日木曜日

性分

 




今朝ゴミ出しに行く前に家の前の落花をホウキではばいて考えた。自分はこういった日々の営みをするときに、なんでもない営みでもやるとなったら全人格を懸けてやる、徹底的にやるという性格だ。そうでなければ何もしない。それはなぜか。自分のやりたいことをするのは楽しいがそうでないことはしたくない。したくないことを楽しくやるにはどうするか?その行為に全人格をかけてやれば行為に意味が発生し、終わったときの達成感を目標にすることが出来るからだろう。やっぱり僕は行為に意味を求めてしまうのだ。それってなかなか窮屈な生き方だな。でも性分だから仕方がないか。





2025年4月25日金曜日

百年の孤独


 ガルシア・マルケスの「百年の孤独」を読み終えた。この物語のテーマである「孤独」について考えたことをGrokに尋ねてみた。

わたしの問い
女性がつながりを前提とする存在であるのに対し男性はつながりよりも自己のアイデンティティを重視する存在であるように思います。この物語は男性性の抱える宿命的な孤独をもテーマにしているのではないでしょうか?

Grokの返事
あなたの指摘は非常に鋭く、『百年の孤独』における「孤独」の主題を、男性性と女性性の対比を通じて解釈する視点は、作品の深層を読み解く上で興味深いアプローチです。ガブリエル・ガルシア・マルケスのこの小説において、確かに男性キャラクターの抱える宿命的な孤独が、自己のアイデンティティや個の追求と結びついているように見える一方、女性キャラクターはしばしばつながりや家族の継続性を体現する存在として描かれています。この観点から、以下に分析を展開します。

男性性の宿命的な孤独
ブエンディア家の男性キャラクターは、自己のアイデンティティ、野心、情熱を追い求める過程で、しばしば孤立し、宿命的な孤独に陥ります。この孤独は、男性性が自己実現や独立性を重視する傾向と密接に関連していると言えます。以下に具体例を挙げます:

    ホセ・アルカディオ・ブエンディア:物語の始祖である彼は、錬金術や科学的探求、冒険心に駆られ、マコンドを創設します。しかし、彼の夢や理想は家族や共同体の現実から乖離し、狂気と孤立に追い込まれます。彼の情熱は自己のアイデンティティを確立するためのものですが、それが結果的に彼を家族から切り離し、孤独な運命を決定づけます。
    アウレリアーノ・セグンド:彼は享楽的で自己中心的な生活を追求し、妻フェルナンダとの関係は冷え切っています。彼の快楽主義は、自己の欲望を優先する男性性の表れとも言えますが、それが家族とのつながりを希薄にし、孤独を深めます。
    ホセ・アルカディオやアウレリアーノたち:ブエンディア家の男性たちは、世代を超えて繰り返される名前と運命に縛られ、戦争、情事、冒険、芸術など、個々のアイデンティティを確立しようとする試みに没頭します。しかし、これらの試みはしばしば破滅的で、家族や共同体とのつながりを断ち切る結果となります。たとえば、アウレリアーノ・ブエンディア大佐は革命に身を投じますが、その闘争は個人的な理想に基づくものであり、最終的には虚無感と孤独に苛まれます。
    物語の終焉:最後のアウレリアーノがメルキアデスの予言を解読し、一族の運命を知る場面は、男性の知識や自己探求の極点を示しますが、それは同時に一族の終焉と完全な孤立を意味します。この結末は、男性性が自己完結的なアイデンティティを追求する過程で、つながりを失い、宿命的な孤独に陥る姿を象徴していると解釈できます。

女性性とつながりの役割
一方、ブエンディア家の女性キャラクターは、家族や共同体の継続性、つながりを維持する役割を担うことが多く、男性の孤独とは対照的な存在として描かれます:

    ウルスラ・イグアラン:ブエンディア家の精神的支柱であるウルスラは、家族の存続と秩序を守るために奮闘します。彼女の存在は、つながりを前提とした女性性の象徴であり、男性たちの無謀な行動や孤立を繋ぎ止める力として機能します。彼女の死後、家族は急速に崩壊し、女性がつながりの中心であったことが強調されます。
    レメディオス・ラ・ベジョータ(美しきレメディオス):彼女は純粋で超越的な存在として描かれ、男性たちの欲望やアイデンティティ追求の対象となりますが、彼女自身はそれらの枠組みを超え、つながりや現実の重荷から解放された存在です。彼女の昇天は、女性性が男性の孤独とは異なる次元で機能することを示唆します。
    フェルナンダ・デル・カルピオ:フェルナンダは伝統や規範を重視し、家族の枠組みを守ろうとしますが、彼女の厳格さは男性キャラクターとの断絶を生み、つながりを完全に実現できない悲劇性を帯びています。それでも、彼女の努力は家族の存続に向けられています。
    アマランタ:アマランタは情熱的で自己主張の強い女性ですが、彼女の孤独は愛を拒絶することによるもので、男性の自己追求型の孤独とは異なり、つながりを求めつつもそれに失敗する形の孤独です。彼女の物語は、女性性がつながりを前提としながらも、男性性との衝突によって孤立する可能性を示します。

男性性の孤独とテーマの関連
『百年の孤独』における男性性の宿命的な孤独は、自己のアイデンティティや個の追求が、家族や共同体とのつながりを犠牲にする過程として描かれています。これは、男性性が自己完結的な目標や理想を優先する傾向が、結果的に孤立や破滅を招くという、マルケスの批評的な視点とも言えます。ブエンディア家の男性たちは、自己の名誉、情熱、知識、権力を追い求めるが、それらが最終的に虚無や滅亡につながる。この点で、物語は男性性の抱える「宿命的な孤独」を、ラテンアメリカの歴史や文化における個人主義、植民地主義、革命の失敗といったテーマと重ね合わせているとも解釈できます。
一方、女性キャラクターが家族やつながりを重視する存在として描かれることで、男性の孤独がより際立ちます。女性たちは、男性の破滅的な行動を補完し、家族の存続を支える役割を果たしますが、彼女たち自身も完全なつながりを実現できない場合が多く、物語全体としては、人間存在そのものの孤独が強調されます。

結論
『百年の孤独』は、確かに男性性の抱える宿命的な孤独を重要なテーマの一つとして扱っていると言えます。男性キャラクターの自己アイデンティティの追求は、つながりを断ち切り、孤立と破滅を招く過程として描かれ、これがブエンディア家の滅亡に至る主要な要因となります。一方、女性キャラクターがつながりや家族の継続性を体現する存在として描かれることで、男性性の孤独がより鮮明に浮かび上がります。ただし、マルケスはこの対比を通じて、単に男性性を批判するのではなく、男性性と女性性が互いに補完し合いながらも、運命や歴史の前で共に孤独に直面する人間の普遍的な姿を描いているとも言えます。このテーマは、ラテンアメリカの文化的・歴史的文脈を超え、現代社会における個人と共同体の緊張関係にも通じる深い洞察を提供しています。



2025年2月23日日曜日

靴を磨く

 5年前に買ったネグローニのドライビングシューズ(リンク)が大分ヤレてきたので久しぶりに靴磨きした。


コロニル1909のcolorlessとtanとdark brown。今回はcolorless。


靴紐をほどいて


丹念に磨く


ツヤが出てきた


ふたたび靴紐を結んで完成。



2025年2月17日月曜日

排便習慣について



 今年1月は二度ラキソベロンの力を借りたがほぼ毎日、一日一回の排便があった。2月に入ってからは、ラキソベロンの力を借りずに毎日、日に二~三度排便出来るようになった。
これは僕が毎日が日曜日で、わずかでも便意を感じたらその機を逃さずトイレに行くことが出来たからだ。毎日仕事をしていたらこんなことは絶対に不可能だ。縄文時代なら仲間と狩りに出て野原で便意を感じたら、「オレちょっとうんこしてくる」と言って排便することも可能だろう。だが現代ではそれは不可能なのだ。

現役当時は前回いつ排便したかを覚えていないほど、時には一週間も排便がなく、石のように硬い便をひり出すのに苦労して自分で尾骨と肛門の間を指でマッサージしてようやく排便をみたり、それでも追いつかないときは結局猛烈な腹痛を伴う虚血性腸炎になったりした。
こんな生活をするうちに身体は食事→便意→排便という自律神経の反射の機能が衰退してしまって便意も感じなければ仮に便意を感じても排便を促す腸管蠕動も衰えてしまう。僕の場合はこの排便にまでつながる自然な反応が復活するまで、退職後七年余りもかかってしまった。
便が出ない日が一日でもあると、出口に近付いていた便から水分が吸収されて固くなって便秘につながる。だから最低でも、ごく少ない量でも、毎日一回は排便があるというのが理想だ。便意がなくても、朝食後一定時間便座に座る習慣も大切だ。
ちなみに僕はトイレに書き込みができるカレンダーを押しピンで貼って毎日の排尿と排便回数を書き込むようにしている(上記写真)。
自分が一日に何回おしっこが出ているのか、前回の排便はいつだったのかがわかって楽しい。正の字は排尿回数。黒丸は排便で黒丸の大きさで便の量を表している。カタカナの「ラ」はラキソベロンを使った印。

しかしこれにこだわりすぎるとこれまたよくない。たまには全く便意がない日もあるのだ。特に前日にたっぷり便が出た翌日など。
そんなとき、絶対便を出すぞと力んで腹筋に力を入れて、ない便意を呼び覚まそうとすると、まぁたしかにそれで出るときもある。しかし必要以上に力むと痔になる。
僕の場合は今年2月に入って毎日二~三回排便があり(妻はこれが普通だというが僕にとってはこんなことは生涯で初めてだ)そのペースを崩さないようにトイレで力んでいるうちに痔になった。肛門縁の右端に小さいが有痛性の結節が出来た。これは努責による痔静脈の怒張だろう。そこで少量のベルクミン軟膏に少量のマイザー軟膏を混ぜて指で肛門に塗布したら2日で結節が消失した(医学的根拠は全くありません)。やれやれだ。まぁ、出ない日もあるというくらいの気持ちが大切だろう。

ちなみに排便のための工夫としてはたまに使うラキソベロン(1~2日出なかったらコップ半分の水に容器をギュッと一回絞って飲む。1ccくらいかな。約半日くらいで強い便意が来る)というのと、それから毎日の工夫としてはバナナ一本とりんご1/4個とヤマイモ厚さ1cmとビフィズス菌末BB536のスティック1本と牛乳100ml+水300mlくらいを全部ミキサーで撹拌して朝飲んでいるのと(これについてはどの程度効いているのかは不明)、マグミット330mgを昼食後と夕食後に2錠ずつ服用している(このとき最低コップ一杯の水分と一緒に服用するのが大切。下痢するようなら服用をスキップ)のと、最近は愛用のnalgeneの容器に高千穂漢方研究所 発芽はとむぎ茶を1包と900mlの熱湯を入れて一日かけて飲んでいる(これも効果の程は不明)。あ、あとは漢方の乙字湯を数日服用して痔と便通を整えたり。

それからもう一つ大切なこと。それは排便時の姿勢です。

従来日本人は上図の左のようないわゆるうんこ座りで排便していました。しかし生活の洋風化に伴い現在ほとんどの日本人は右のような姿勢で排便していると思います。
僕ももちろん右の洋式便器を使っていますが、あるとき左のような姿勢になると便が出やすくなることに気が付きました。洋式便器で左のような姿勢をとるのは困難ですが、右の姿勢のまま体幹をもっと強く前屈させて、足元を覗き込むような姿勢をとるわけです。そうすると腹圧がかかって便意を呼び込みやすくなります。こちらのサイト(リンク)にはそのあたりのことをより詳しく説明しているので興味のある方は御覧ください。

以上は僕のやり方で他の人にも有効かどうかは全く不明であり有害事象が発生することがあります。それから便秘には様々な原因があるので上記のやり方を試みてみようと思う方はまずはお近くの病院やクリニックにご相談ください。お身体の状態によってはラキソベロンやマグミットや乙字湯が使えなかったり副作用が発生する場合もあります。大腸ファイバーで大腸に問題がないかどうか確認することも大切です。

ウーン、コんなこと書いてよかったのかな。まぁ以上は僕の排便習慣の話で、この方法を推奨しているわけでもないし、どう読まれるかは各個人の受け取り方次第だからね。








2025年2月10日月曜日

CROCS問題

カヤックの際にドライスーツを着ると足回りがブカブカなので大きめのクロックスを履いている。それはいいのだがちょっとした拍子にクロックスが脱げてしまう。
陸の上ならいいのだが水上でロールに失敗するとたぶん脱げたクロックスが流されていってしまうだろう。簡単に脱げないようになにか工夫が必要だ。


クロックスが脱げないためにはこのカカトホルダーみたいなのが矢印の方向に牽引されていればいいわけだ。


それでカカトホルダーにDREMELで2箇所穴を開けて紐を通して足の甲で結べるようにした。


しかしそれでは結紮力が弱いのでカカトで括るようにした。

これで完成だが反省点としてはカカトホルダーに穴を開けるのにDREMELでは穴が不細工でゆくゆくはここが裂ける原因になるだろう。パンチャーで開けてハトメキットを嵌めればよかった。

追記:上記4枚の写真は外で撮影しているように見えるが実は室内で新聞紙の上にクロックスを乗せて撮影している。それをPhotoshopの生成AIで地面に描き換えた。




2025年2月8日土曜日

フレンチバルブ空気入れ問題


雪が降って積もったのでInsta360 X4で撮影だ!と喜び勇んで外の納屋へファットボーイのタイヤに空気を入れに行った。が、何度やっても空気入れをうまく接続できない。ポンピングしても空気が漏れまくる。どうもおかしい。
いやそもそも30年前、1995年にジャイアントを買ったときに一緒に買ったブリジストンの空気入れで2018年にファットボーイに空気を入れようとしたその時から、なんか空気入れがうまく装着できないなぁ?問題がずっと続いていたのだ。7年間も。

その後この問題についてはなだめすかしながら空気を入れてきたのだが、今日いよいよ空気が全く入らなくなったことで根本的に解決する気になった。ネットで検索したりポンプを自室に持ち込んで点検したりしてようやく原因が判明した。

空気入れの機構については英国式、仏式、米国式の三種類があり、僕は仏式の栓に仏式のアダプターを介して米国式の栓につないで空気を入れていたのだ。本来合わない組み合わせだがたまたま接触の都合でこれまでなんとか空気を入れることが出来たのだがおそらく米式のゴム部分が劣化していよいよ盛大に漏れることになったと。そこで米国式の洗濯バサミみたいなつまみをチューブから抜いてそこに直接仏式のアダプターをねじ込んで仏式の栓にあてがい、栓のお尻のネジ(これもずっと何のためのネジかわからなかった)を締めてから空気を入れたら普通に何の問題もなく空気を入れることが出来た。自分のアホさ加減に笑けてきたが同時にずっと困っていた件が解決して爽快な気分になった。
上記の説明ではなにがなんだかわからないと思うので図示する。

まずこれが30年前に買ったブリジストンの空気入れ。

そしてこれがつまみが付いているので一見英国式だが実は米国式の装着部分。

ファットボーイの仏式バルブ。

この仏式バルブに、空気入れを買ったときに付いてきたこのアダプターをねじ込んで

そこに先程のポンプ先端をつまみで装着し空気を入れていたのだ。7年間も(笑)。逆にこれで空気が入ったのが不思議なくらい。

そこでまずこの洗濯バサミみたいなつまみ部分を引き抜いて

先程のアダプターをねじ込んで

フレンチバルブにあてがったあとお尻のネジを回せば外れなくなり無事に空気を入れることが出来たというわけ。
まぁこんなアホな失敗をするひとはいないと思うが自分を笑かすネタとしては面白いので記念にこの記事を書いた。

2025/2/8