2024年12月23日月曜日

いまさらながらに思うこと


#770


 産経新聞の張本氏の回顧録を読むと彼が人生で経験してきた主に仕事上の人間関係や様々な局面での出来事を眼の前でありありと再現しているかのように語っていることに驚く。

翻って自分の場合は嵐のように過ぎ去った仕事の各局面をほとんど記憶にとどめていない。それはなんだか自分が違う世界に迷い込み、本来自分の居るべきでない場所で、ただひたすらあたふたしていただけだったからではないか。だからこそ一瞬一瞬にリアルのくさびを打ち込むことなく過ごしてきたのではないか。

仕事を自己形成の中心のどっかり据えている人もいれば、僕のようにいつも仕事とは別の自分がぼんやり宙を彷徨っているようなひともいる。そういうひとは積極的に他者とかかわらず、ただひたすら自分の頭の中だけで畑仕事をしている。







2024年12月21日土曜日

過剰と空虚

きれいなものを見るのはたまにでいいし
美味しいものを食べるのもたまにでいい
楽しく幸せな気持ちになるのもたまにでいい

いつもきれいなものを見ていたいとか
いつも美味しいものを食べたいとか
いつも楽しく幸せでありたいと思うのは
こころのなかによっぽど大きな空虚があるのだろう

絶えず心を満足させたいと思う背後には
癒えない悲しみ
消えない寂しさ
果たせない復讐がある

大きな穴があるので大きなボールを入れ続けるのだろう
逆にこれらの過剰は空虚がもたらしたものだとわかれば
過剰に歯止めがかかるかもしれない
空虚は自分が作った物語だとわかれば
過剰をやめることが出来るかもしれない

でも過剰。楽しいんだけどね。
過剰と戯れたい時があってもいいかもしれない。
でも過剰から逃れたくても逃れられないときは
上に書いたことがヒントになるかもしれない。




2024年12月15日日曜日

日常生活の冒険者たち

 

インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国より

日曜日は妻と買い物に行く日課だが今日は妻が出かけているので一人で車で出かけた。走り出してしばらくして携帯を自宅に置き忘れたことに気がついた。あー、やっちまった。携帯がなければ事故ったときに警察にも保険会社に連絡できない。緊急の要件に対応できない。悪い予感ばかりが脳裏をかすめる。戻ろうか?いやいや、悪い予感の9割9分は起きないというじゃないか。ここはハラを決めよう。とにかく慎重に慎重を期して、絶対に事故を起こさないことだ。スピードは控えめに、起こり得るリスクを予想し、右・左折では首振り人形みたいに左右を何度も確認。いやいや、それだけでは不十分だ。フロントピラーに隠れた部分を確認するためには首を左右にシフトする必要がある。
そうやってなんとか無事にショッピングセンターに着いたがまだ油断は禁物だ。階段を降りるときに足をすべらせて転落したらどうする。携帯がないので救急車を呼べないし家族にも連絡できない。あ、向こうから歩いてくる男はひょっとしたらヤバい奴かもしれない。いきなり殴られて喧嘩になったら警察を呼べない。万引き犯と間違われたらどうしよう。そんなふうにいろんなリスクに目を配りながら買い物をしていたら日常が冒険になったことに気がついた。トシを取って頭脳・身体にいろんなハンデを抱え始めると、今までは平和そのものだった日常がまるでトラやライオンが跋扈するジャングルに一変する。これは世界が変わったのではなく、自分が変わったために世界の危険度がアップしたということだ。つまり自分の安全度が低下して、世界の危険度が相対的に上昇するわけだ。

それでなんとか無事に買い物を終えて再び車に乗って帰りながら道を歩いている人達を見るとお年寄りがいっぱいいる。いや僕もお年寄りだがお年寄りがふらふらと危なっかしく歩いている。老人にとって世界は危険に満ちている。そういえば病院で高齢女性が友人の同じく高齢女性にこう言っているのを聞いたことがある。「あのね山本さん、私達は転倒したら終わりだから」。
そうなのだ。目が悪くて視界が十分確保できないひとも、耳が悪くて周りの音がよく聞こえないひとも、頭が悪くなって判断力が低下したひとも、足が悪くてびっこを引いているひとも、みんなジャングルを必死に歩いているのだ。でも考えてみよう。それは悲痛な努力ではない。それはある意味自分にとって未体験の領域に突入したことにほかならず、ワクワクするような冒険を時々刻々体験しているということでもあるのだ。それに気がついた僕は老人を見て「あ、冒険者がいる!」と思わず叫んでしまった。そうなのだ。老人はすべからく冒険者なのだ。そう思った瞬間にしょぼくれてみすぼらしい高齢者はみなカッコいい冒険者に見えてきた。運転しながら、あ、冒険者!あ、また冒険者!あ、またあそこにも冒険者が!という具合に街は冒険者に満ちている。




2024年11月29日金曜日

AirPodsPro2のイヤーフックを自作

 


僕は難聴があるのでこれまで様々な補聴器を試してみたがどれもしっくりこない。半ば諦めていたが最近AppleのAirPodsPro2が聴力補助対応になったので使ってみたらとてもいい。聞こえ方が自然で耳がしんどくない。
これはいいぞと思って使い始めたが問題が一つある。装着しても何かの拍子にイヤホンがポロポロ落ちるのだ。イヤーピースをLにしたらマシになったがやっぱり落ちる。サードパーティのイヤーピースも買ってみたがダメ。
それで耳にかけるイヤーフックを買って使い始めたがこれはこれですごく目立つ。もっと目立たないイヤーフックはないかと探したらYouTubeでこういうのを見つけた(リンク)。そうそう。こういうのでいいんだよと思って買おうとしたらなぜか販売終了。
うーん、じゃあ自分で作るか。イヤーフックのアームを切って切り口から千枚通しで穴を開け、そこに柔らかいワイヤーを差し込んで耳の形に整えただけ。これで目立たないし自分の耳の形にオーダーメイドであてがうことが出来る。おまけに眼鏡のツルとも干渉しない。とても気に入った。




2024年10月4日金曜日

この世に客に来たと思えば


今日ネットを見ていたら

此の世に客に來たと思へば何の苦もなし
朝夕の食事うまからずともほめて食ふべし
元來客の身なれば好嫌は申されまじ
今日の行をおくり子孫兄弟によく挨拶をして娑婆の御暇申すがよし

という言葉を見つけた。
なるほどこれは良い言葉だと思い誰の言葉かと思って調べると戦国武将伊達政宗の遺訓(五常訓)だという。ところがさらに調べてみると仙台図書館の記事に五常訓が正宗の作かどうかは疑問とある(リンク)。
ではこれは誰の言葉かというとその仙台図書館の記事によれば
好古漫録全十二巻、著者詳ならずに「閑通和尚座右銘」と題して

夫〔それ〕人は此世に客に来れりと思はば世話も苦労もなし。
心に叶ひたる食に向ひては能〔よき〕馳走と思ひ
心に叶わざる時も客なれば誉て(褒めて)喰ねばならず。
夏の暑さも客なればこらえねば成らず
冬の寒さも客なれば堪忍せねばならぬ。
兄弟子孫も猶以て相客なれば挨拶よく暮し
気にあはぬ事ありとも客なれば笑ひ
何事も心能くくらしあとに心残さず暇もうすべし。
父母に呼れて仮に客に来て心残さず帰る故(ふる)さと。
閑通和尚は何れの時、何れの処の人なるを知らず。

とのこと。上記をあえて意訳すれば
まぁそれにしてもひとというものはこの世にお客としてきただけだと思えばものごとは簡単になり無駄な苦労もしなくて済む。
好きな食べ物を出されれば喜んで食べればいいし
嫌いなものを出されても自分はただの客なのだから美味しいといって食べればいい
夏が暑い冬が寒いといっても自分は客人だから辛抱するしかないし
他人もみんなそれぞれお客だからたがいに愛想よくし
腹の立つことがあっても自分はここでは客だからと笑い
いい気分で過ごしてさっぱりと死ねばよい
わたしは呼ばれるまえの場所へスキップして帰りましょう
閑通和尚がいつごろのどこにいた人かは誰も知らない





2024年9月23日月曜日

視野狭窄

最近パソコンのモニター画面でマウスのポインターの位置を探すのに苦労することが多いが、それは緑内障の視野狭窄で視点の中央しか見えていないせいだということにふと気が付いた。ということはポインターをぐるぐる回しながら同じく視点も画面の周囲をぐるぐる探索すればポインターを見つけることができるわけだ。







2024年8月30日金曜日

お作法

#742
OM SYSTEM OM-1 Meyer-Optic Diaplan 80mm F2.8




赤瀬川原平さんの「千利休 無言の前衛]を読んでいたらそのなかの"古新聞の安らぎ"という段落で彼はひとつの思い出を語っている。
ある時彼がアパートの廊下を見ると見事に正確に折り畳んだ古新聞の山があった。普通はざっくり束ねてゴミの日に出す新聞紙がきちんと折り畳まれて立方体の角が驚くほどの垂直線で切り立っていることに彼は強いショックを受け、それ以後彼も垂直に切り立った古新聞を出すようになった。その理由を彼は「不安を優しく包みこんだリズム」にあるという。古新聞をきちんと畳むという行為が不安を和らげるというのだ。

出勤前の忙しい朝、慌ただしく食事を済ませて家を出ようとすると妻から古新聞をゴミステーションに出しておいてと頼まれる。なんだよ!と思いながらバサバサと乱雑に広がった新聞の束を袋に入れようとするが縦横斜めにはみ出して上手く袋に収まらない。あーっもう!とイライラしながらも結局は新聞を全部袋から出して一束ずつ袋に収めなおしていく。そうしている間にもバスに乗り遅れるのではないかと不安になる。こんな意味のないことをしている間にバスは出発してしまうのだ。

家を出るというA地点からバスに乗るというB地点のあいだにあるのは意味のない時空間だ。そして古新聞はその時空間に存在する。こういった無意味な時空間をなくすために便利な商品が存在する。パナソニックの「古新聞まとめる君」。もうあなたは古新聞を触る必要もありません。読み終わったらまとめる君にポイと放り込むだけ!あとはゴミの日に勝手にごみ集積所に運んでくれます今なら税込19,800円!でもまだ燃えるゴミを運んでくれる商品はないし燃えるゴミと燃えないゴミを分別してくれる商品もない。

A地点からB地点の間に存在する無意味な時空間に存在する古新聞。その古新聞に関わる自分もその時無意味な存在になる。無意味なことをしている自分は無意味なのだ。永遠に無意味な時空間に奇跡のように現れた自分という有意味な存在は死ぬと再び無意味な時空間に溶け込んでいく。ひとはその無意味に帰するという不安に耐えられないからせめて今やっていることに意味を求める。それでひとは退職後にそば打ちをはじめたりブログを書いたりする。
原平さんの先ほどの文章の続きで駅の改札口の切符切りが客と客の合間に切符切りをカチャカチャいわせている行為についても書いている。今はもうそんな光景は目にすることはないが、あれも客と客の間の無意味な時間をカチャカチャ切り刻んでいるのではないか。何もしていない不安を切符きりで切り刻む。

さて長々とこんなことを書いてきたがこの本は千利休の話でつまりは茶道について。
お茶粉の入った湯呑みにティファールでお湯を注げばあっという間にお茶が飲めるのになぜわざわざ面倒なお作法が介在するのか。お作法以前にそもそもお茶の時間は必要なのか。それは無駄な時間ではないだろうか。
そう、お茶の時間やお茶の作法が存在するのはA地点からB地点のあいだの「無意味な時空間」だ。茶道はその無意味な時空間に木枠で入り組んだ水路を構築する。その迷路のような水路を水はきちんとルールに従った道筋で流れていく。お作法という水路を流れる自分に自我はなくそこには作法だけがある。そしてやがてはその作法も消えていく。




2024年8月7日水曜日

力王を改造する

BATESのヴィロシターというミリタリーブーツが購入後8年経ってついに底が抜けた。というかソールが剥がれてしまった。写友とともに撮影会に出かけていたのだがソールがベロンべロンで歩きにくかったのでアーミーナイフでソールを切り取ってその日は過ごした。
それで後日別の新しいブーツを買って山歩きをしたらどうにも歩きにくくて疲れてしまった。いやブーツが悪いというよりトシを取って足腰が弱くなって重い靴が苦痛になったことや、足のセンサーが鈍くなって素早く対応できなくなったというわけなのだ。
どう言ったらわかってもらえるだろう。地面が遠い感じ。大げさだが高下駄を履いて歩いているような感じ。地面の凹凸や傾きがわからなくて不安。

ソールの薄い履物なら地面の様子が足の裏に直接感じられるのではないかと思ってネット検索すると、足袋を履いて山歩きしているひとが結構いることに気が付いた。それで僕も早速「力王エアーたびフィット 7枚コハゼ(リンク)」を購入して山登りしてみた。

感想は素晴らしいの一言だ。足の裏に地面を感じることができる。細かな凹凸や傾きがわかるのでとても安心感がある。微妙な土の柔らかさや滑りやすさもわかるので指や足の裏にどの程度力を込めたらいいか、前もって調整することができるのだ。
快調に山を登ることが出来たのだが問題は下り坂。僕の足のサイズは26.5~27なのでこの力王も26.5を購入したのだが、山を下っている時にかかとを中心にかなりの隙間があることに気が付いた。ブカブカしてソールがヨレる。うーん、ちょっと大きかったか。
それで更に後日「力王 貼付たび 実用地下たび 5枚コハゼ(リンク)サイズは26.0」というのを買ってみたら今度はぴったりだった。前回のエアーたびフィットはクッション材の中敷きがあるので踏み心地が幾分ソフトだが今回の実用地下足袋は更にダイレクトに地面を感じることができる。さてではエアー足袋をどうするか。ちょっとゆるいまま履くのは気がすすまない。

力王の足袋の多くはコハゼといって足袋に付いた金属製のフックを対側の紐に引っ掛ける仕様で、フックを3本のヒモのどれに引っ掛けるかで足袋のフィット感を調整することができる。しかし僕のエアー足袋は一番前の紐に引っ掛けてもまだ緩いのだ。そもそも僕はこのコハゼという留め方が嫌い。とても面倒なのだ。コツとしてはヒモの穴の位置を都度ゆびで確認してからフックを引っ掛けるといい。しかしとにかく面倒で時間がかかる。
いっそのことコハゼをトッパラッてベルクロにしたらどうだろう。ベルクロなら締め具合の自由度も格段にアップする。
そこで力王を改造してみることにした。

まずコハゼをニッパーで切断。

すべて取り去ったところ

下地を傷つけないように気をつけながら3本の紐をカッターで外していく

適当な大きさにカットしたベルクロ(リンク)を縫い合わせていく。

完成。

改造に半日もかかってしまったが履き心地はすこぶる良い。もちろんコハゼのほうが外れにくいだろうが緩かった足袋の履き心地が大幅に改善し履きやすさも申し分ない。





2024年7月19日金曜日

BOSCH Rotak37LIのブレード交換



2013年に購入した電動芝刈り機BOSCH Rotak37LIのブレード交換。ブレードを固定しているボルトを反時計回りで力を込めて回したらゆるんだがブレードも一緒に回転するのでブレードの穴にドライバーを差し込んだらブレードが回転しなくなってボルトを緩めることが出来た。僕はこのドライバーはブレードの回転を邪魔するただのつっかえ棒と思ったのでそれ以降はドライバーを外して作業再開。しかしボルトをある程度緩めるとボルトのネジの受け側(モーター側)も一緒に回ってしまう。仕方がないので指示の部分をラジオペンチで掴んで回らないように固定してボルトを外した。同じく今度はブレードの装着だが途中まではラジオペンチで回らないようにしてボルトを締めたが途中からそれ以上は締められなくなった。YouTubeで検索したらブレードの交換方法の動画(上の動画)が見つかり、それをみると先程のドライバーはブレードの回転を邪魔するのではなくモーターの回転を止めるためだったと判明。それでドライバーを差し込んだらボルトを最後まで締めることが出来た。



2024年6月15日土曜日

間食をやめるだけで体重は減るか?

 今僕は67歳で体重は71キロ以上あるがフルで働いていた三十代や四十代の体重は60キロ台だった。
以前の体重に戻したくて運動したりダイエットしてもあまり効果がない。いやもちろん食事を減らしたり運動すれば当然体重は減るがその分お腹がすいて間食したりするので元の木阿弥だ。

じゃあダイエットせずに運動もせずに普通に三度の食事をしたらどうなるか?
ところが普通に三度の食事をしているだけなのに体重が徐々に増えていく。
普通に三度の食事をしているだけなのに、いや合間にちょっとお腹がすいてチョコレートを1つ食べたり飴をなめたりせんべいを一枚食べたりする。こんなあめ玉一つ、せんべい一枚、カロリーで言えば微々たるものだろう。そんなものが体重に影響するのだろうか。いや増える。それは実感としてある。なぜこんなもので体重が増えるのか?カロリーイコール体重ではないのか?

つまり体重の増減は摂取カロリーの総量とは別のメカニズムがあるのでは?
そこで三度の食事は普通にがっつり食べて間食だけをやめたらどうなるかを実験することにした。もともとそれほどたくさん間食はとらないので一日の摂取総カロリー量はそんなに減っていないはず。

矢印が間食をやめた日。間食をやめてから2週間以上経過したが徐々に体重が減ってきた。
どうも間食をやめるだけで結構効果がありそうだ。
そこでそのメカニズムを考えてみた。

縦軸に脳の幸福度(上に行くほど満腹でハッピー、下に行くほど空腹でアンハッピー)、横軸は時間経過。
食べると脳はハッピーになるが、やがてお腹がすいてくる。飢餓感。お腹がグーッと鳴って切なさを感じたりするが、人類が生まれてこの方、我々はこの感覚と戦ってきたようなものだ。今のようにちょっとお腹がすいたからコンビニでパンを買って食べるなんていうことが出来なかった昔は飢え死にしたり、食料の奪い合いで殺し合ったりしてきたのだ。切実なモチーフであり、それが人類を発展させる重要な動機でもあった。
だからこの空腹感は必ずと言っていいほど我々に何らかの行動を促すのだが、今は基本的に食料に困ることのない時代なのでこの欲求に身を任せると確実に太っていく。特に代謝の低下した高齢者にとっては普通に食べていても太るのだ。
で、何が言いたいかというとこの空腹を感じているときに脳は何を考えているか。

このピンクが満腹感を、青い領域が空腹感を感じている領域で、その時脳が感じていることは↓

で、この青い脳が考えている「次の食事までの間は脂肪を燃やしてしのごう」というのがポイント。
ところが間食するとどうなるか?

この、「脂肪を燃やす必要がなくなった」と脳が考えることこそ
たかがおやつで太ってしまう原因ではないか。

問題は間食のカロリー量ではなく、間食が「脂肪を燃やす」から「脂肪を燃やさない」へのポイントの切り替えをやっている可能性がある。そしてこのポイントの切り替えは間食のカロリー量の多寡に寄らないと。だからあめ玉一つで太る。ポイント切り替えにはあめ玉一つで十分なのだと。

この仮説を証明するのはわりあい簡単だ。対象をⅡ群に分けて間食する群としない群に分けてそれぞれの摂取カロリー総量と体重の推移を比較する。しない群とした群の体重差が摂取カロリー量の差以上!あれば、しなかった群ではより多く脂肪が燃焼した可能性がある。




2024年1月22日月曜日

ニュートラルな状態


#637




トイレでおしっこしながら、あ、今自分はニュートラルだ、と思った。これって、このニュートラルな状態というものをこれまで意識したことはなかったとふと思った。

暑いわけでもなければ寒いわけでもない
空腹なわけでもなければ満腹でもない
痛いわけでもなければ気持ちいいわけでもない
悲しいわけでもなければ楽しいわけでもない

考えてみればそんなニュートラルな状態に人は意識を向けないし、そんなのただ過ぎ去っていく時間のような気がしてなんとなく落ち着かないから空腹でもないのにおやつをつまんだり、悲しいわけでもないのにテレビを見てしまう。

それはまぁいわば実存のさみしさみたいなものなんだろう。
ニュートラルな状態を寂しく感じてしまう。何かしていないと落ち着かない。
その寂しさを紛らわすために人はおやつを食べて太ってしまってニュートラルじゃなくなってしまう。
ニュートラルなのが嫌なのかな。







2024年1月4日木曜日

50年後のカーペンターズ

 正月でうちに遊びに来ていた娘を車で送っていった帰りたまたま付けたラジオがαステーションでカーペンターズの特集をやっていた。考えてみれば僕が彼らの曲を聴いていたのは15歳から16歳頃で今からちょうど50年前だ。音楽は当時の僕の周りの空気まで蘇らせてくれる。
あの頃。ECCが終わったあと彼女と一緒に黒い業務用の自転車を押しながら帰るのが僕の習慣だった。彼女というのはそのECCで同じクラスだった子で背が高くて眼が魅力的な美人ちゃんだった。彼女と学校のことや英語のこと、他愛もない会話をしながら僕はいっぱしのボディガード気取りで彼女を家の近くまで送り届けていたが、彼女は自分の家がどれなのかを決して明かそうとはしなかった。彼女は決まって家の近くまで来るともうここでいいといって去って行った。訝る僕を置き去りにして。
そんな日の一日、暗い商店街を歩きながら彼女は何気なく僕のことを大好きだと言った。それはいわゆる告白口調ではなく話のついでみたいな言い方だったが、僕は他人から、それも女の子から好きと言われたのは初めてだったので結構どぎまぎした。あるとき僕は彼女と別れたあと純粋な好奇心から跡を追って彼女の家を突き止めた。その家は普段の彼女の垢抜けた都会的な言動とは不釣り合いな外観だった。ただ僕自身の家も同じように貧乏だったからそれで彼女に対する印象が変わるようなことはなかった。だからあるとき僕が彼女の家の場所を知ったことを何気なく告げたとき露骨に嫌な顔をされて驚いた。それは僕が今で言うストーカーまがいな行動をしたからだとずっと思っていたが、カーペンターズを聴いていてようやく気が付いた。そうか。彼女は自分の家を僕に見られたくなかったんだ。彼女は自分の家の貧乏を憎んでいて、出来ることなら自分の家から離れたかったのだろう。それもできるだけ遠く。彼女の家が象徴しているその当時の日本の貧乏やみすぼらしさや、その対極としての華やかなアメリカでの生活への憧れ。
本当のところはわからない。だが当時彼女が不思議なほど英会話に力を入れていた理由が僕なりに納得がいったのだ。そんなことがわかるのに50年もかかるなんて、なんと僕は鈍感だろう。まぁ僕はこの人間関係についての鈍感さと一生付き合っていかなければならない定めだと心得てはいるのだが。そんな彼女はその後日本を離れ今はロサンゼルスの大手の化粧品会社で活躍している。